旅の終わり

 ウズベキスタンの首都タシケントの空港で,飛行機が離陸のための滑走を始めると,ぐっと体が座席に押し付けられた。この加速度を味わうのは久しぶりだ。窓の外の景色は次第に,そして大幅に速度を上げながら,前から後ろへと流れ去っていく。やがて機体が浮き上がると,一気に地面は下のほうへと遠ざかっていった。
 いちど針路を変えるために機体が大きく傾くと,まるで挨拶でもするかのように窓いっぱいにタシケントの街並が広がった。しかしそれも,機体が体勢を立て直すとともに,またあっという間に視界から消えていった。

 しばらくすると飛行機は充分に高度を上げ,目的地であるタイのバンコクへ向けての安定飛行に入った。シートベルト着用のサインが消えると,僕は座席をいっぱいまで後ろに倒して深く腰掛け,大きく一つ息を吐いた。

 これで,僕の旅も終わりだ。


* * *

 ヒヴァからタシケントへは夜行列車で移動した。二等寝台はエアコン無しの車両だったけれど,走り出してしまえば窓から風が入るので快適だった。向かい合わせの席にはウズベク人の男性が座っていたけれど,彼は素朴でとても親切な人だった。口数は少ないながらも僕と片言で一生懸命会話をしてくれる。夕方になると,ロールパン以外にまともな食料を持っていなかった僕に,自分のパンと羊の干し肉を分けてくれ,食後には自分のカップにお茶を入れて僕に振舞ってくれた。

 ウズベキスタンは中央アジアでも最大の観光国なので,各観光地ではどうしても観光客ズレした現地人が,観光客に高い値段を吹っかけるケースが多い。世界遺産になっているヒヴァでも,入場料の徴収で不正が後を絶たないからと,ユネスコの係員が調査に来ていたそうだ。僕たち旅行者もまた,そういう観光地ばかりを回ることになるので,ウズベキスタンでは嫌な思いをする旅行者も多いようだ。

 でも,観光客と接する人間が(全員ではないにしても)お金に汚くなるのはどこだって同じだ。日本にだってそういう場所がたくさんあるのを知っている。そういう一部の人達を除けば,どこの国にもいい人がたくさんいる。夜行列車で出会った彼は,改めてそれを教えてくれた。ウズベキスタンの最初にコーカンでマスマさんに出会ったように,最後にまた親切なウズベキスタン人に出会って,気持ちよくこの国を去ることができそうだなと思った。

 ウズベクの砂漠を突っ走る列車の窓からは,夜になると驚くほどたくさんの星が見えた。色々と考え事をしながら横になって星を見ているうちに,僕はいつしか眠っていた。翌朝9時過ぎ,列車はタシケントに到着した。



 タシケントは落ち着いた雰囲気があるとはいえ,かなり大きな都会だ。もともと特にこの街に興味があったわけではなく,単に飛行機に乗るために来ただけなので,観光らしい観光はしていない。そんな中で,一ヶ所だけ行こうと思っていたのが,この街のオペラ・バレエ劇場だった。日中劇場へ行ってみると,既にシーズンは始まっていて,今月の演目のリストが貼り出されていた。
 チャイコフスキーやハチャトゥリアンといったロシアの作曲家の演目が並んでいるのはさすがに旧ソ連のお国柄。僕は翌日の演目,ハチャトゥリアンのスパルタカスというバレエのチケットを買った。
 ちなみにチケット代は300円。驚くほど安かったのでどんなに端っこの席かと思っていたけれど,当日になって劇場に行ってみたら,なんと前から5列目のど真ん中。この劇場で一番いい場所だった。

 ただし残念ながらステージのレベルは,300円にしては上出来,というくらいのものだった。特にオーケストラがよくない。でもさすがに旧ソ連だけあって,バレエダンサーの方は結構頑張っていたように思う。中でもタイトルロール(スパルタカス役)の男性ダンサーは完全に舞台を引っ張っていたし,また女奴隷の妖艶な踊りを,見るからにアジア顔のウズベク人女性ダンサーが踊っているのも,それはそれでエキゾチックで面白かった。
 これが,僕の唯一のタシケント観光だった。


* * *

 飛行機は約6時間のフライトの後,無事にバンコクの空港に着陸した。飛行機を降りたときの独特のにおいや湿度の高さ,そして空港を出たときのまとわりつくような暑さが,いま自分がタイにいることを僕に強烈に意識させてくれた。
 ウズベキスタンは湿度が低く,特に砂漠のオアシス都市であるブハラやヒヴァでは極度に空気が乾燥している。だからこそあのヒヴァの空があったのだろうけど,土の多い場所で育った僕は,やはり日本により近いタイの風土の方に,どうしても落ち着きを感じてしまう。

 バンコクで一泊した翌日,僕はタイで一番のお気に入りのチェンライの街へ飛んだ。チェンライはこれで3度目。まだ雨季が続いているのか天気こそ良くなかったものの,相変わらずのんびりした空気が穏やかに僕を出迎えてくれた。いつもの宿に行くと,いつものおばさんが出迎えてくれた。僕は部屋に入って重いバックパックを下ろし,シャワーを浴びた。

 帰国までの一週間,ここでゆっくりするとしよう。






~ ~ ~




 このブログはこの記事をもって本編を終えることにします。常に自分の感性と表現力の限界を感じながら駄文と素人写真で綴ったこの拙い旅行記を,最後まで読んで下さったみなさんに心から感謝致します。そしてまた旅の途中で出会い,僕の旅を豊かにしてくれた全ての人々,日本で僕を応援してくれた友人と家族にも,心よりお礼申し上げます。
 このブログを改めて読み返してみて,もっと広い視点から記事が書けたんじゃないか等,反省する点は多々ありますが,とにもかくにも,これが今の僕に作れる最大限の作品だということになります。
 今回の旅自体,もっと深められたのではないだろうかという気持ちも多分に残っていますが,いずれにせよ,この旅が無駄にならないようにこの先の人生も前向きに生きていきたいものです。

 ところで,このブログのタイトルにしている“Asirope”という言葉ですが,AsiaとEuropeを適当にくっつけただけの造語です。僕は自分がアジア人という意識が強いので,Eurasia(ユーラシア)という言葉の順番が気に食わず,勝手にこういう順番にしました。
 もともとはその名の通りアジアとヨーロッパを回るつもりでいましたが,途中でアジアの多様性が作り出す幅広さと奥深さの虜になり,予定を変えてアジアだけを回ることになりました。ヨーロッパの記事を楽しみにして下さっている方がいらっしゃったとすれば,本当に申し訳ありません。ただ,いつかはヨーロッパを広く回りたいという気持ちはあるので,何年(何十年?)か先にまたこういう形で旅の記録をつけることがあるかもしれません。
 

 なお,ブログ本編はこれで終わりますが,この後も各国情報を兼ねた国別の簡単なまとめ記事を,総集編のような形でいくつか載せる予定です。


 それでは,ここまで読んで下さってありがとうございました。
 さようなら!


 16/9/2007 IBA at Chiang Rai, Thailand
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# by Asirope2 | 2007-09-16 16:10 | ウズベキスタン

ヒヴァ/昼と夜,そして空

 ヒヴァの街の空気に,すっかり飲み込まれてしまった。街の雰囲気といい,街歩きの面白さといい,ここはインド・ラジャスタンのジャイサルメールと良く似ている。日中の40℃を越える暑さまで一緒なのには閉口するけれど,その暑さにも関わらず毎日街を歩き回っている。

 この街で一番好きな建築物は,何といってもカルタ・ミナールだ。前回も書いたとおり,当時のハーンの戦死によって工事が途中で終わってしまったためにずんぐりとした形になってしまっていて,それがどこか愛嬌を感じさせるのだけれど,同時にこれが完成していればどれほど立派で威厳のあるミナレットになっていたかと想像するのも楽しい。
 近くから見ると,さすがに堂々とした大きさを実感する。
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 ウズベキスタンの各観光地では夜になると歴史的な建物がライトアップされるのだけれど,中国と違って控え目で安っぽさがないので,僕は夜になって街を歩き回るのも好きだ。特にヒヴァの場合は街自体がサマルカンドのように明るくないので,ライトアップされた建築物が本当に闇の中に浮かび上がるようで美しい。
 カルタ・ミナールは夜もやはり堂々としている。夜の暗さの分だけ,未完成に終わった残りの部分へのイマジネーションがかき立てられ,ヒヴァの街にそそり立つ巨大なミナレットが見えるかのような気になってくる。
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 夜の街を気の趣くままに歩いていると,ふと細い路地の間から遠くにミナレットが見えてきたりする。
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 ヒヴァにはカルタ・ミナールを含めて3つの大きなミナレットがある。そのうちで最も高いミナレットに行ってみた。マドラサとミナレットが,それぞれに引き立てあっている。
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 どういうわけかウズベキスタンにはフランス人観光客がやたら多い。80%がフランス人,10%が日本人,10%がその他,というくらいだ。おかげで昼間はフランス人たちが街中いたるところにいるのだけれど,彼らは夜になるとどういうわけか全く外に出なくなる。おかげで,夜の街並を静かにゆっくりと堪能することができた。
 宿に戻る途中,宿近くの城壁に行ってみると星がきれいだった。星の輝く夜空の下のヒヴァの風景は,昔からずっと変わっていないに違いない。
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 朝起きて朝食を摂り,街を歩き始める。まだ午前9時だというのに,もう日差しがチクチクと刺さってくるようだ。そんな中でも,日陰になった石畳の小道は爽やかで涼しい。
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 ヒヴァの旧市街のメイン通りは観光客や観光客目当ての土産物屋が多く,賑やかだ。でも,そこから一筋となりの通りに行くと,急に静かになる。そこで道端の日陰に腰を下ろし,地元の人々が行き交うのを見るのが僕は好きだ。
 高く昇った太陽から降り注ぐ強烈な光と,その太陽にずっと照らされ続けてきた古い干しレンガの壁。その壁の前を通り過ぎていく,鮮やかな原色の服を着たウズベク人女性たち。そしてその背景にあるのは,常に空だ。
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 ヒヴァの空! これほど美しい空はめったにないだろう。限りなく鮮やかで,どこまでも深く,その先の広漠たる宇宙の深みすら想起させる。常に青く抜け切っていて,一点の染みもない。毎日まいにち,どこにも雲がない。高所から眺め渡すと,360°ぐるっとどこも,地平線のすぐ際まで青い空がつながっている。
 ヒヴァに何日も滞在していると,この完璧な青い空こそが,実はヒヴァの主役のような気がしてくる。カルタ・ミナールも,数多いマドラサも,干しレンガの壁も,全てがヒヴァの空にしっかりと抱かれて,だからこそその魅力を安心して解き放っているかのようだ。


 日没間際,夕日に染まったヒヴァの街を高台から眺めた。空も街も,限りなく美しかった。
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# by Asirope2 | 2007-09-14 14:31 | ウズベキスタン

ホラズムのオアシス

 ここに何泊しますか,と聞かれて,僕はためらうことなく4泊と答えた。それを聞いた宿の人は僕からパスポートを受け取ると,宿帳を記入しに行った。4泊というのは,スケジュール上僕がこの街に滞在できる最大の日数だ。街に到着して間もないのに,もうそのくらい僕はこの街に魅了されていた。
 ブハラから乗ってきたタクシーを降りて,最初に出会った子供たちの表情が素晴らしかった。目に入った旧市街の街並みや,旧市街を囲む城壁が作り出す風景も良かった。そして何より,街をゆったりと包み込む空気に,僕はここヒヴァの街が以前から思い描いていた通り,中世の雰囲気を色濃く残した場所であることを直感した。
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 ヒヴァの街はブハラから更に西へ500km,ホラズム地方と呼ばれるアムダリヤ川下流域のオアシス都市だ。ガイドブックによれば,この場所には16世紀にヒヴァ・ハーン国の都が置かれたのだそうだ。ただし当時の街の規模自体は非常に小さく,18世紀になってロシアとの交易で街が栄えるようになってから競うようにモスクやマドラサが建設されたという。
 その当時の建築物は極めて小さな旧市街に集中していて,その周囲に大きな新市街が広がる。街の近代化も新市街側で行われ,旧市街はそっくりそのまま昔の姿を保っているそうだ。ソ連時代からヒヴァの旧市街は“博物館都市”として保存され,現在ではユネスコの世界遺産にも登録されている。


 ヒヴァに着いたのが夕方も遅い時間だったので,この日は夜に少し出歩いて街の風景をざっと眺めただけだったけど,それでもその風景はヒヴァの魅力を充分に期待させるものだった。改めて翌朝早く起き出して,いよいよヒヴァの街を本格的に歩き始めた。
 ヒヴァは日中の日差しは強烈だけれど,砂漠の乾燥気候のため朝晩はかなり冷え込む。まだ人気が少なく,静かでひんやりとした朝の空気の中を歩くのは心地いい。
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 少し歩くと,ヒヴァのシンボルとも言うべきカルタ・ミナールが見えてきた。
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 このミナレット(ミナール)は,19世紀に中央アジアで最も高いミナレットを目指して建設が始められたものの,工事途中でハーンが戦死したために,そこで建設が中止されてしまったのだという。ウズベキスタンでも有数の観光の目玉で,この国の絵葉書のセットを買うと,まず間違いなくこのミナレットの写真が含まれているはずだ。青いタイルで覆われたミナレットが昇ったばかりの朝日に赤く照らし出されて印象的だった。

 このカルタ・ミナールは旧市街の中心にあるので,一日に何度も目にすることになる。昼間の青空にも,青いミナレットはよく映える。工事が途中で終わってしまったために,その形は優美さより愛嬌を感じさせるけれど。
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 サマルカンドやブハラと同様,ここヒヴァにも数多くのマドラサ(神学校)が建設された。狭い旧市街にひしめき合うようにそれらのマドラサがあるけれど,建築自体には他の街のものと大きく異なる点はなく,見ていて目を引くようなものはない。むしろ個々の建築物の壮麗さという点ではサマルカンドやブハラの方が立派だ。
 そんな中で,信仰の中心的な場である金曜モスク(集団礼拝のためのモスク)はなかなか面白かった。外見も内装も華美さは全くないけれど,室内には精緻な彫刻の施された木の柱が立ち並び,静謐な空気で満たされていた。
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 このモスクにも高さ42mのミナレットがあり,そこに登ることができる。狭くて暗い階段を登ると,ヒヴァの旧市街と,その周囲に広がる新市街が一望の下に見渡せた。
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 この街では,旧市街全体が中世の面影を色濃く残している。古い建築物を見て回るよりも,僕は次第に街と人が作り出す風景の方に興味を持つようになっていった。ヒヴァには夏の青い空が良く似合う。その真っ青な空の下で井戸の水を汲む女性たち,古い建物の前を通る人々,マドラサ前の広場でサッカーに夢中になっている子供たち。ヒヴァの街並みは古いけれど,この街には今もまだ人々の生活感が,深呼吸にようにゆっくりと深く息づいているのだった。
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# by Asirope2 | 2007-09-13 19:48 | ウズベキスタン

ブハラの街並

サマルカンドはなかなか居心地のいい街で思わず長居してしまった。他の旅人からサマルカンドは今ひとつだと聞いていたので,大して期待していなかったのが逆に良かったのかもしれない。
 そんなサマルカンドにも別れを告げて,次の目的地のブハラへ向かった。ブハラもコーカンやサマルカンドと並んで古都としての歴史を持つ,ウズベキスタンでも有数の観光の街だ。
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 サマルカンドからブハラへは列車を利用した。車内はエアコンが効いている上に食事も出されて快適そのもの。値段もそんなに高くない。この国ではバスは極力避けた方がいいようだ。そんな快適な列車の旅もわずかに3時間ほどで終わり,いよいよブハラに到着。強烈な直射日光に照り付けられながら,他の旅人に教えてもらった宿へ向かった。

 宿にチェックインした後,さっそく街を見に出かけた。ブハラの街は旧市街と新市街とがはっきり分かれていて,見所は小さな旧市街に集中しているので観光が楽だ。ちなみにブハラの旧市街は,1000年以上も基本的な建物の配置が変わっていないそうだ。
 その旧市街を地図を持たずにぶらぶらと歩くうちに,ブハラ一番の見所であるカラーン・モスク前に出た。
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 このモスクの脇に立っている塔はカラーン・ミナールという。通常イスラムではミナールを礼拝の呼びかけに使うけれど,19世紀半ばまで,このカラーン・ミナールは公開処刑にも使われていたという。市民が見守る中,高い塔の上から罪人が投げ落とされたそうで,なかなか物騒な話だ。
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 このミナールの表面の模様は,全てレンガの組み方を変えることで作られているという。表面の凹凸の違いによって影のできかたが変化するのが面白い。


 モスクの前には観光客だけでなく現地の人達も多くいる。ここブハラの人々はタジク系の人が多く,ウズベク系が多いサマルカンドの人とは明らかに顔つきが違う。服装もウズベキスタンらしく民族衣装の人が多く,自分がどんどん遠くに移動しているということを実感する。
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 街のあちこちにタークと呼ばれるドーム屋根付きのバザールがある。かつてここに中央アジアの商人たちが数多く集まったという。
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 入り口は駱駝に荷物を積んだまま通れるよう,かなり高く作られている。
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 残念ながら今は土産物屋の集合体になってしまっている。
 ブハラの旧市街では土産物屋の客引きがよく寄ってくる。「ニホンジンデスカ?」,「オミヤゲ,ミテイッテクダサイ」と観光地では定番の片言日本語で話しかけてくるのだけれど,実は僕はこれが大嫌いなのだ。これがなければいいところなのに,と残念に思う。
 

 この旧市街から離れると緑豊かな新市街が広がっている。
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 新市街を歩いていると,とあるモスクを見つけた。入り口前の柱が全て木でできていて驚いた。
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 ちょうど礼拝が始まる前の時間だったためか,何人かの人が絨毯を敷いているところだった。
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 絨毯を敷きおわると,老人たちがそこで話を始めた。完全に生活の中にイスラムが溶け込んでいる感じで,モスク周辺は穏やかな空気が流れていた。旧市街のツーリスティックな空気より,僕にはこっちの方がよほどいい。
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 少し街外れにある宿に戻る途中,宿の近所の子供たちが話しかけてきた。夕日に照らされた彼らの笑顔は,本当に素敵だった。
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# by Asirope2 | 2007-09-08 20:55 | ウズベキスタン

夜のレギスタン広場

 ここサマルカンドはウズベキスタンでも有数の観光地ということで,数多くの旅行者が訪れる。その中には,キルギスのサクラゲストハウスで知り合った日本人も多い。ウズベキスタンはユーラシア大陸横断ルートの中心部に位置することもあり,みんな同じルートを相前後しながら移動しているのだ。そんな旅行者の何人かと,夕食を摂りに街へ繰り出した。
 サマルカンドでも結構有名なそのレストランは,男3人で入るには多少雰囲気が良すぎた気がしないでもないけれど,(中央アジアでは珍しく)味も良く,なかなか楽しめた。


 その帰り道にインターネットカフェに立ち寄った後,涼しかったので宿まで少し歩くことにした。ウズベキスタンは日中はかなり暑いけれど,朝晩は半袖では肌寒いくらいにまで気温が下がるのだ。
 道中,ライトアップされたレギスタン広場が遠くに見えてきた。
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 これが,なかなかきれいだった。これはいいと3人とも喜んで,近くまで寄ってみると,暗闇の中に佇むマドラサは昼間とは違って静かな空間の中で落ち着いた姿を見せている。
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 調子に乗って何枚も写真を撮っていると,警備の警官が寄ってきた。
 ウズベキスタンでは「石を投げると警官に当たる」と言われるくらい,警官が多い(ちなみにキルギスでは石を投げると羊か酔っ払いに当たる)。首都タシケントでは更にその警官たちが,旅行者に難癖をつけて金品を巻き上げるケースも多いという。ここサマルカンドではそんな悪徳警官の話は聞かないけれど,夜遅かったのでさすがにちょっと身構えた。

 その警官は僕たちに親しげに話しかけてきた。“How are you?”,“Where are you from?”
 僕たちが日本人と分かると,彼は日本語でこう言った。「ミナレットに登りますか?」
 ミナレットとは,イスラムの建築物に特有の高い塔のことで,本来はこの塔の上から一日5回の礼拝を呼びかけるために使われるものだ。そういえばガイドブックにも,警備員が小遣い稼ぎのために旅行者をミナレットに登らせると書いてあったな…

 値段を聞くと最初は一人300円と言っていたけれど,こちらが渋っていると200円でどうだと言ってきた。まあ200円なら,とみんなで登ってみることにした。


 塔の内部は狭い螺旋階段になっている。本来なら真っ暗なはずなのに,煌々と電球が輝いていた。ん? なぜかちゃんとインフラが整備されているなあ。稼ぐ気満々という感じでなんだかおかしいぞ。

 ミナレットの上からは,サマルカンドの夜景を背景にマドラサがライトアップされている。これはなかなかきれいだった。
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 3人がミナレットの上からの眺めを見終えて下に降りると,こんどはマドラサの中庭も見せてくれた。静かな中庭には人影もなく,ということは全くなくて,観光客がたくさんいた。既に夕刻に門を閉じたはずのレギスタンに団体客がいる,というのも何か変だ。この小遣い稼ぎ,実はかなり実入りがいいんじゃないだろうか。このあたり,非常にウズベキスタンらしい。

 まあ警備員としても,厳格に仕事をして一晩中ヒマな時間を過ごすよりも,観光客からお金を取って中を見せる方が人間の行為としては自然だよね,なんてことをみんなで話しながら外に出た。

 最後に正面からレギスタン広場の写真を撮って,宿に戻った。ちょっと面白い夜だった。
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# by Asirope2 | 2007-09-06 13:48 | ウズベキスタン

青の都・サマルカンド

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 コーカンからタシケントに着くとすぐ,サマルカンド行きのバスに乗り込んだ。ウズベキスタンの首都であるタシケントには,周辺国のビザ取得のために滞在する旅行者も多いけれど,特に見所があるわけでもないのでビザ取得の必要がない僕はそのまま素通りして先へ進んだ。
 サマルカンド行きのバスは,コーカンへ移動したときと同じように“元”エアコンバスで暑かった。しかも今回は距離が長いので時間がかかる。更に途中で別のバスに乗り換えないといけなかったりして,ガイドブックには4時間と書かれていた所要時間が,実に7時間もかかってしまった。
 そうやって疲れ果てて辿り着いたサマルカンドは,さすがにいにしえのティムール帝国の都らしい風景を持っている,なかなか魅力的な場所だった。


 到着の翌日は休養を取り,その次の日からいよいよサマルカンドを歩き始めた。最初に見に行ったのがビビ・ハニムモスクという場所。ここは帝王ティムールの愛妃ビビ・ハニムがティムールのために作らせたという伝説も残る巨大なモスクだ。宿から歩いていくと,地図を確認するまでもなく大きな青いモスクが見えてきた。中に入ると,とにかく大きい。
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 キルギスとウズベキスタンは同じオアシス文化といっても全く違う。キルギスはオアシスを拠点にした移動型遊牧文化であるのに対して,ウズベキスタンの場合はオアシス定住型の都市文化だ。そのため,キルギスでは見ることのなかった壮大なイスラム建築がいくつも作られた。その中の代表的なものが,ここサマルカンドの建築群だろう。ビビ・ハニムモスクは,その中でも,というより中央アジア最大の大きさを誇っている。1398年から建造が始まり,完成したのは1405年らしい。
 モスクの壁面を彩るアラベスクのモザイク紋様を見ていると自分がどんどん西に進んでアラビア文化圏に近付いていることを実感する。
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 巨大なモスクを後にして向かったのが,シャーヒ・ズィンダ廟という墓所だ。通常の庶民の墓地のある地域の中の一画に,歴史的な廟がいくつも建ち並ぶ通りがある。ここでもやはり青を基調とした数々の廟が建てられ,繊細な幾何学模様で美しく飾られている。14世紀末の建築ということだった。
 地元の人々にとっても重要な場所であるらしく,多くの人が訪れていた。
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 このあと,街から少し離れたウルグベク天文台跡に行ってみた。ウルグベクはティムール帝国の歴代の王のうちの一人で,当時の第一級の天文学者でもあった。彼が1420年頃に作らせたこの天文台は当時としては世界最高の精度を誇り,望遠鏡のないこの時代に,1年の長さを誤差1分以内で測定したほどだったという。
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 今ではもう観測施設は何も残っておらず,一つだけ六分儀の基礎部分が残っているだけだった。同じ宿の旅行者からもこれといって見所はないと聞いていたけれど,僕はウズベキスタンに来る前から,このウルグベク天文台を楽しみにしていた。この天文台は,インドのデリージャイプールで訪れたジャンタル・マンタル(天文台)のモデルになったと聞いていたからだ。

 ここウズベキスタンは,後のインドのムガル帝国と密接な関連を持っている。ムガル帝国の創始者バーブルが,実はティムールの子孫なのだ。ティムール自身もインドのデリー周辺まで遠征に出たこともあるという。世界地図を見るとウズベキスタンは地理的にインドと近く,ここからインドへ諸文化が伝わっていったことも比較的自然なことだと納得する。その中の一つが他ならぬイスラム建築であり,アグラのタージマハルはその精華の一つだ。そしてまた,天文台に象徴される自然科学の知識も,ここからインドへ伝わっていき,インド各地のジャンタル・マンタルの建設につながっていった。
 現代は情報技術が進み,世界が狭くなったと言われているけれど,こういう旅をしていると,実は遥か昔から人間は相当ダイナミックに広い範囲を動き回っていると思うようになってくる。地球は案外,昔から狭かったんじゃないか。


 サマルカンド観光のハイライトは,何といっても市中心部にあるレギスタン広場だ。ここには3つのマドラサ(神学校)が向かい合うように建てられている。とはいえ建造された時代には幅があり,最も古いものはウルグベクによって1420年に建てられた。一方,残りの2つは約200年後の17世紀に建てられたものだ。
 実は僕がサマルカンドに到着した翌日がウズベキスタンの独立記念日で,この広場のど真ん中にショーのための特設ステージと観客席が設置されていた。既にその独立記念日から数日が経過したけれど,旧ソ連のウズベキスタンでこれらのステージや客席が迅速に撤去されるわけもなく,いまだに解体の気配も見せず残されたままになっている。何が言いたいかと言うと,まともな写真が撮れないのだ!
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 とはいえ,一つひとつの建物はやはり美しい。「青の都」の名にふさわしく,華麗な青の装飾を楽しむことができる。
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 ちなみにここにあるマドラサの一つでは,正面の壁画にアラベスクだけでなく獣の姿が描かれている。イスラム教は偶像崇拝を禁じているので,このマドラサは当時のイスラム神学者たちの怒りを買ったという。
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 3つあるマドラサの一つにはモスクが併設されたものもある。その中に入ると,天井の装飾の美しさに思わず声が出た。
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 サマルカンドはウズベキスタン観光の筆頭に挙げられる観光都市だけれど,街を歩いていると時間がゆったりと流れていて,地元の人々にも観光客ずれしていない素朴な人が意外と多い。一つひとつの建築物もなかなかいいのだけれど,僕にとってはそれ以上に,これらの古いイスラム建築群をごく自然に包み込んで穏やかな表情を見せる街の空気自体が最も魅力的に思える。
 歴史的にも地理的にも興味深いこのサマルカンドは,滞在していてもなかなか心地よい場所なのだった。
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# by Asirope2 | 2007-09-05 16:32 | ウズベキスタン

古都コーカンドにて

 ついにキルギスを出た。数えてみると50日ほどの滞在だった。今年行ったインドと中国でもそれぞれ40日くらいの滞在だったので,いつの間にかこの2大国を超えていたわけだ。キルギスなんて面積だけで言えばものすごく小さい国だし,しかもその滞在のほとんどがビシュケク。自分でも少し呆れてしまった。

 さて,いよいよウズベキスタン入国だ。僕は実は国境を越えるのがとても嫌いだ,ということを以前にも書いた気がする。新しい国へ行くこと自体は嬉しいのだけれど,その手前にある出入国手続きが僕は大嫌いなのだ。特にやましいことがあるわけではないのだけれど,昔から車を運転していてパトカーが後ろにいるのが分かるとちょっと焦ってしまうくらい気の小さい僕には,この国境の手続きは少々気が重い。しかも,旅行者の間ではウズベキスタンの入国審査はなかなかに悪名高いので尚更だった。

 旧ソ連圏の国の中で,キルギスやカザフスタンの出入国審査は拍子抜けするほど簡単だ。ところが,これがウズベキスタンとなると,所持金や貴重品をリストアップした税関申告書を提出しなければならず,しかもこの所持金は係官の目の前で現物を出してカウントしないといけないこともしばしばだという。
 しかもそのとき,申告書に書き漏らした所持金があればそれは“没収”されてしまうこともある(そのお金の行き先は当然ウズベクの財務省などではなく,係官の懐だ)のだそうだ。運が悪ければ荷物も細かくチェックされ,気がつくといくつかの品物がなくなっていた,という話も聞いていた。


 移動日の朝,ビシュケクで知り合った日本人旅行者がちょうどオシュに滞在中だったので,その彼と朝食を摂り,国境情報も聞いた上でいざ出発。国境行きのミニバスに乗り込んだ。
 国境へは20分ほどで到着し,まずはキルギス側の出国審査。僕が日本人と分かると係官の対応は俄然よくなり,特に問題もなく通過できた。国境に限らずキルギスでは日本人は中国人とよく間違われるのだけれど,こちらが日本人だと分かると急に相手の態度が良くなる。中国人には申し訳ないけれど,僕はキルギス人と話すとき,聞かれなくても“ヤポーニャ(日本人だよ)”と言うことが多かった。

 さて,次はいよいよウズベク側の入国審査だ。まずはパスポートチェックから。係官は僕のパスポートをみて日本人だと分かると急に態度が和らいだ。ここまではキルギスと一緒だ。すんなりと入国スタンプをもらったら,次は税関,いよいよ山場だ。別の係官から申告用紙をもらい,頑張って記入する。“頑張って”というのは,結構細かい内容の申告書を2枚も書かないといけないからだ。1枚は入国時に提出し,もう1枚は出国時に提出するのだ。
 申告書を書き終えて,係官のところへ持っていったら,彼はしばらくそれを眺めた後,また書き直すように言った。どうやら,所持金の記入欄とカメラやパソコンなどの貴重品の記入欄を間違えていたようだ。う~,面倒くさい!

 改めてまた申告書を2枚書いて提出すると,今度は問題なかったらしく,係官は「所持金を出せ」といってきた。いよいよ来たか。かなり警戒しながら係官の前に所持金を並べた。ドル,ユーロ,ウズベクソム,タイバーツなど,種類も多いので油断できない。これをいちいち数えられたら面倒だなと思っていると,係官氏もさすがに面倒に思ったのか,「じゃあ行ってよし!」
 他の荷物もチェックされることなく,無事に国境を通過できた。


 国境からは一度近くにあるアンディジャンという街までタクシーで移動しなければならない。アンディジャンではバスに乗り換え,この日の目的地であるコーカン(日本では“コーカンド”という方が一般的だろう)へ向かった。コーカンはここフェルガナ盆地の古い都だ。
 バスは作られた当初はエアコンもあったようだけど,今は動かない。窓がちょっとしか開かないので,走っているうちはともかく,停車すると突然サウナに変貌する。車内でウトウトしていて,ふと暑さで目を覚ますと,たいてい停車して誰かが乗り降りしているのだった。
 ちなみにフェルガナといえば,紀元前100年ごろに前漢の武帝に派遣された張騫(ちょうけん)が汗血馬を求めた場所だ。馬が重要な軍事力だった時代に,血の汗をかき,一日千里を走ると言われた汗血馬は中華皇帝にとって喉から手が出るほど欲しかったものらしい。2千年も前に,中国人はこんなところまで来ていたのだ。

 暑いバスでやっと到着したコーカンドは,思ったよりもだいぶ小ぢんまりした街だった。とりあえず宿を確保しようと,あらかじめ良いと聞いていたホテルへ移動することにした。乗り合いのミニバスで行きたいのだけれど,どれに乗ればいいのかよくわからない。周囲の人に聞くと丁寧に教えてくれた。
 そのミニバスで10分ほど走ると,ドライバーがここで降りろという。やっと着いた,早くシャワーを浴びたいと思ってホテルを探すと,それらしい建物を発見。さっそく中に入ろうとしたところで,大変なことに気付いた。そのホテルは,なんと閉鎖されていたのだった。
 これはまずい。ガイドブックを見ると他の宿はバスターミナル周辺にあるらしく,またバスターミナルへ戻るよりほかにない。もと来た道を,またミニバスで移動する。何をやってんだか。

 バスターミナルで宿を探そうとしたけれど,これまた驚いたことに宿は看板を出していないとガイドブックに書いてある。当然すぐには見つからない。もうだんだん疲れてきて,一気に首都のタシケントに移動してしまおうかと近くの乗り合いタクシーの運ちゃんに値段を聞くと,今度はこれが随分ふっかけてくる。ほとほと嫌になって,でもどうしようもなく困り果て,道端でガイドブックを開いて途方に暮れていると,信じられないような言葉が聞こえてきた。
 「ニホンジンデスカ?」

 振り返ると,ウズベキスタン人の若い女性が立っていた。日本語が話せるのですか,と聞くと,大学で日本語を学んでいたという。海外の観光地で日本語で話しかけてくる連中というのは大抵ロクでもない人間ばかりと相場が決まっているのだけれど,この女性は見るからにいい人で,親切心から僕に声を掛けてくれているのは明らかだった。
 これは本当に助かった。ホテルを探しているのだけれど,と正直にいうと,じゃあ私が連れて行ってあげますと言ってミニバスに一緒に乗ってくれた。
 マスマさんという名のこの女性,本当に親切な人で,ミニバス代まで出してくれ,僕がバス代を出そうとしても受け取ってくれない。ところが,その彼女がわざわざ僕を連れて行ってくれたホテルというのが,何とさっき僕が来たばかりの閉鎖されたホテルだった。これには彼女も驚いていた。

 もう一つあるという宿にも連れて行ってもらったけれど,これはバザールへ買い出しに来たウズベク人向けの安宿で,もう本当に安いだけが取柄というような汚い場所だった。シャワーもないというのでここには泊まりたくない。でもここしか無いなら仕方ないのだろうか,あるいは高くてもタシケントへ行くべきかと迷っていると,マスマさんからまた信じられないような一言,「じゃあ私の家に泊まりますか?」


 さすがにここまで人の親切に甘えてしまってもいいものだろうかという思いが頭をよぎった。でも,見るからに雰囲気がよく,人が親切そうなこの街を素通りもしたくなかった。マスマさんも自分の故郷のコーカンを僕に見せたがっていた。あつかましいとは思ったけれど,ここは素直にマスマさんのご厚意に甘えることにした。


 マスマさんの家はバスターミナルのすぐそばだった。頑丈な門の中に入れてもらうと,驚くほど大きくてきれいな家だった。マスマさんの家族もみんなマスマさんと同じように親切で,外国人の僕を笑顔で迎え入れてくれた。話によればマスマさんの日本語の先生(もちろん日本人)もここに泊まったことがあるそうで,特に日本人には親しみを持ってくれているようだった。

 ここでお茶と果物を頂いて,まずは移動の疲れを癒してもらった。そのあと,マスマさんと,マスマさんの弟のジャラリディン君に連れられ,コーカン観光に出かけた。
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 まず行ったのは,コーカンの中心にあるフダヤル・ハーン宮殿というところ。かつてここコーカンはコーカンド・ハーン国の都だった。その最後の王フダヤルが作ったという宮殿だ。今は内部は博物館になっていて,周囲には公園が整備されて市民の憩いの場になっている。夕方遅い時間だったので中には入れなかったけれど,外から見ただけでもアラベスク装飾の美しい宮殿だった。
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 その後,またバスに乗って市内の墓地へ連れて行ってもらった。僕は全然知らなかったのだけれど,この中には日本人墓地もあるのだった。第二次大戦後,ソ連の捕虜となった日本兵たちがここコーカンに連れてこられたらしい。静かな墓地の中の一画に,その日本人墓地はあった。
 ロシア人の墓は墓石も大きく,肖像画なども彫ってあったりして立派なものだったけれど,その隣にあった日本人たちの墓は地味なもので,小さな墓碑に日本語とロシア語で名前が彫られてあるだけの簡素なものだった。

 敷地の中央には埋葬された人達の名簿が彫られた石碑が建っていて,そこには250ほどの名前が50音順で刻み込まれていた。そしてその石碑の一番上には「鎮魂」の二文字が大きく彫られていた。僕はこのときほど,「鎮魂」という言葉を重みを持って受け止めたことがなかった。
 ここに葬られた人達は,時代の流れの中で兵士として外国に出征を強いられ,捕虜となって帰国かなわず異国の地に果てたのだ。今の時代ですら日本人が訪れることの稀なこのコーカンで,60年前に最期の時を迎えた彼らの心中の無念はいかばかりであったか。まさに「鎮魂」というほかない。体中の血をほとばしらせるような壮絶な重みを持つ言葉と,僕は受け止めた。
 この石碑とは別に,彼らの生没年を刻んだ石碑もあった。生年は1900年ごろから1925年ごろまでで,没年は1945~6年が多く,最も遅くまで生きた人でも1948年には没していた。若い人は20歳そこそこで死んでいることになる。ここでの捕虜としての生活の凄惨さを垣間見た気がした。墓地を立ち去るとき,亡くなった方々に手を合わせずにはいられなかった。

 マスマさんによれば,ここで日本人のお墓を作ってくれたのはコーカンの人々だという。今も昔も,コーカンの人々は外国人に対して寛容で親切なようだ。フェルガナ盆地という,歴史的に多くの民族が交流を重ねてきた土地柄ゆえだろうか。

 墓地を訪ねた後はマスマさんの家に戻った。夕食をご馳走になり,これまでの僕の旅の写真を見せたり,マスマさんにウズベキスタンの写真を見せてもらったりしたあと寝た。

 翌朝は早く起きて,朝食を頂いたあとすぐに出発した。本当はコーカンをもっとゆっくり見たかったけど,さすがにもう一泊させてくれとはとても言えない。
 マスマさんはタシケント行きのタクシー乗り場まで来てくれて,値段交渉もやってくれた。何から何まで親切な人だったけれど,僕はといえば「ありがとう」を繰り返すばかりで何もお礼ができない。ありがたさともどかしさを胸一杯に抱きながら,僕は一路タシケントを目指した。
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# by Asirope2 | 2007-09-03 19:18 | ウズベキスタン