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悠久トルファン

 ピシャンからトルファンに着いて最初の印象は,「暑い」の一言に尽きた。「火州」の異名を持つトルファンの夏は中国で一番暑いと言われていて,50℃という気温を記録したこともあるという。敦煌の莫高窟を見に行ったときも,この後トルファンに行くとガイドのお姉さんに言うと,「昨日のトルファンは48℃まで上がったそうですよ」と言われて絶句してしまった。僕が着いた日も,明らかに40℃に達していた。
 しかしそのトルファンは,よく見てみるとただ暑いだけではなく,中国文化とウイグル文化,更には西方の諸文化と歴史の交錯する,魅力的な街だった。

 トルファンの街を歩いていてまず気付くのは,ウイグル人の多さだ。ウイグル自治区なんだから当り前といえば当り前なのだけれど,西域とはいえ甘粛省の敦煌がほぼ漢人の街と言っていいのに比べ,ここまで来ると西アジア系の彫りの深い顔立ちの人々が通りを行き交い,ここがまだ中国だということが不思議な感じがするくらいだ。バザールなどを見ているとむしろ,去年行った中央アジアのキルギスを思い出す。

 ここトルファンでは葡萄の栽培が盛んで,街なかにも葡萄棚がアーケードのように通りを覆っている場所がある。僕はトルファンに来たら名産の葡萄を楽しもうと思っていたのだけれど,残念ながらまだ少し時期が早いらしく,店先には出回っていない。そのかわり葡萄棚には,若々しい緑色のたくさんの房がぶら下がっていて,見ていて爽やかな気分になる。
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 この辺りでは取れた葡萄はそのまま食べるほか,干しブドウにしたりワインを造ったりするそうだ。トルファンのワインは歴史が古い。唐の時代には既に作られていたらしく,唐がこのトルファン盆地にあった高昌国を併合したときに初めて中華世界に伝えられたという。そしてそれが後に,王翰の有名な涼州詩を生んだ。

“葡萄の美酒 夜光の杯
 飲まんと欲すれば琵琶馬上に催す
 酔うて沙上に臥すとも 君笑うこと莫れ
 古来征戦 幾人か回(かえ)る”

 これほど異国情緒に満ち,切実で,しかも華麗な詩はほかにないだろう。僕はこの詩が好きで,敦煌の土産物屋で夜光杯を買っていた。あとはトルファンで“葡萄の美酒”を買って,その夜光杯で飲もうと思っている。普段僕はお土産に何かを買うということはしないのだけれど,これだけは西域へ来るささやかな楽しみの一つだった。


 ただしワインが目的でトルファンに来る人は余りいないだろう。ここトルファンには,なかなか興味深い場所がいくつかある。その中でも最も有名なのは,何といっても火焔山だろう。西遊記の中で玄奘一行が火の山に出会って行く手を阻まれる。孫悟空の活躍で牛魔王から芭蕉扇を手に入れ,風を起こして山の火を消して,ようやく一行が山を越えることができた,という場面がある。
 これはもちろん作り話だけれど,トルファンにある火焔山はそのモデルになったといわれている。確かにこの暑さの中で火が燃えているような山肌を見ると,そういう話ができても不思議はない。
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 この火焔山はところどころ川が横切っている。
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 その川沿いに上っていくと,ベゼクリク千仏洞という遺跡がある。敦煌の莫高窟と同じく,山肌に開鑿された仏洞だ。これらの仏洞を作ったのは,イスラム化する前に仏教を信奉していたウイグル人ということだった。
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 残念ながら,ここベゼクリクの仏洞の壁画は損傷が著しい。砂に埋もれて長く忘れ去られ,そのお陰で荒廃を免れた敦煌石窟とは違い,ここトルファンでは常に人々の生活があった。ウイグル人がイスラム化したときに,偶像崇拝を嫌うイスラム教徒が仏洞の多くを破壊したという。でもガイドの話では,ベゼクリクの壁画が失われた原因はそれだけではないという。

 敦煌石窟の膨大な文書が,イギリス人やフランス人,日本人などの探検家によって持ち出されたように,ここベゼクリクでも貴重な壁画がドイツ人探検家によって切り出され,ドイツへと運ばれたという。それがそのままであればドイツの博物館で大切に保管されただろうけれど,残念ながら第二次大戦中の爆撃で貴重な壁画は失われてしまった。
 そして,わずかにベゼクリクに残された壁画も,文化大革命の際に,宗教を嫌う中国共産党の手で壊滅的な被害を蒙った。仏像は爆薬で破砕され,壁画に描かれた仏陀や菩薩などは,その顔の部分を削り取られてしまった。かつては鮮やかであっただろう壁画の,もはや痕跡とも残骸ともつかないものを見ていると心が痛んだ。

 今は訪れるものの少ない静かなベゼクリク千仏洞で風のそよぐ音を聞いていると,しかし,昔日の賑わいが鮮やかに思い浮かんできた。袈裟を着た何人もの僧侶たちが,日中でも涼しい石窟の中で経典を研究し,あるいは仏教談義にふける。その彼らの周囲を,色鮮やかな絢爛たる壁画が囲んでいる。陽の光は今と同じように明るく,木々の緑が盛んな中を川が水面をキラキラと輝かせながら流れ,爽やかな風がそこを吹き抜ける。工人や彫刻家,画家といった人々が集まって新しいを石窟をつくり,現世に極楽浄土を創り出そうとしている。
 落ち着いた中にも華やかさと活気のある,1500年前の風景が蘇ってくるようだった。
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 遠い歴史の彼方に思いを残しながら次に向かったのは,ベゼクリクより更に古い,交河故城というところだ。ここは遥かに紀元前まで,その起源を辿ることができる。かつて入り口の門だった岩は,今はもう風化が進んで穴の開いたただの岩くれにしか見えない。
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 ここ交河故城は,岩場の上に石やレンガを積み上げたのではなく,その岩場自体を削って下向きに空間を作っていった場所なのだそうだ。はじめは車師(しゃし)族という民族がここを拠点とし,後の漢や唐の時代には,中国の王朝が西域の拠点としたこともあったという。
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 古い井戸の跡もあった。今は乾いて強烈な日光にさらされたここも,昔は人々が集まって井戸端会議に夢中になっていたのだろうか。
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 ここも昔を偲ぶには絶好の場所だったけれど,昼近くなってあまりにも暑くなってきたので早々に引き上げた。トルファンでは夏場に外を歩き回れるのは早朝と夕方くらいだ。観光は時間との勝負でもあるのだった。
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by Asirope2 | 2007-06-30 13:01 | 中国

新疆へ

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 敦煌は居心地のいい街だった。しかも長年にわたって僕の憧れの地だった。その敦煌にもいよいよ別れを告げ,先へ進むときが来た。次の目的地は更に西にある新疆(しんきょう/シンジャン)ウイグル自治区のトルファンという街だ。ただし敦煌からトルファンへの直通バスはないので,途中にあるハミという町を目指した。
 いつもなら一人で向かうバス停だけれど,今回は同行者がいた。莫高窟で同じグループに入って見学し,その莫高窟では「今日,上海から夜行で着いてすぐに来ました」とさらりと言って僕を驚かせ,宿のドミトリー(大部屋)に戻ってみると実は部屋まで一緒だったという,日本人旅行者のトシ君だ。彼はアジア・欧米・中南米と世界中を訪ね歩いている筋金入りの旅行者で,僕のような“なんちゃってバックパッカー”とは格が違う。少し一緒に過ごしただけでも,言葉の壁も何のその,どんどん何にでも飛び込んでいくその姿は僕にはかっこよく見えた。
 彼は敦煌を一日見て回ったあと,もう観光は終わったからと一泊だけで次の街へ向かうということだった。その前は夜行列車内で2泊しているはずなのに,何という体力。

 ハミ行きのバスは順調に6時間で目的地に到着した。ただ,普通ならバスは街のバスターミナルが終着のはずなのに,このバスは街なかのガソリンスタンドに停まった。少し歩き回って現在地を確認しようかとバスを降りかけると,同じバスに乗っていた年配のおじさんがドライバーに何やら声高に叫んでいる。このおじさん,実は韓国人旅行者で,バスターミナルまで行ってくれ,と要求していたのだった。俺はトルファンへ向かう途中なのだけれど,バスがなければ今日はこの街のゲストハウス(安宿)に泊まるから,バスターミナルまで行ってくれ,と頑張っているようだった。

 ドライバー氏は分かった分かったという風にうなずきながら,お前たちはどうするかと,僕たちに向かって尋ねてきた。僕もバスターミナル近くに宿を取って翌日トルファンに向かおうと思っていたので,ありがたく連れて行ってもらうことにした。

 バスが出るまで少し間があったので車内に座っていると,外でトシ君がドライバー氏と会話している姿が見えた。さすがだなと思いながらその場に行ってみると,今日の夕方4時ごろにトルファンに行くバスがあるらしい,とトシ君が教えてくれる。二日かかると思っていた移動が一日で済むのならありがたい。こういう情報収集力も見習わなければ。

 しばらくしてバスはバスターミナルに移動した。僕はてっきり街の中心部にあるバスターミナルに行くのかと思っていたけれど,バスが着いたのは街外れにもう一つある南ターミナルだった。そこで聞いてみると,夕方の4時半にピチャン(鄯善/シャンシャンともいう)という,トルファンの手前にある街まで行くバスが出ていて,そのピチャンでトルファン行きに乗り換えるということだった。トルファンへの直通バスは午前中に一便しか出ていないらしい。

 それならやっぱりハミに一泊しようかと思っていたら,トシ君が「ハミは大きな街だし面白くなさそうだから,ピチャンに行ってみた方が面白いんじゃないですか?」と言う。それもそうだ。この発想が素晴らしい。ということで早速ピチャン行きのバスの切符を買った。

 敦煌からハミまでの6時間の移動に続いて,今度はハミから5時間かけてピチャンまで移動した。それはいかにも退屈だっただろうと思うかもしれないけれど,この道中の景色が素晴らしかった。地平線まで続く荒涼とした沙漠と岩山の風景を,時折オアシスの鮮やかな緑や,赤茶けた地面が彩る。何物にも邪魔されずに一日中この景色を眺められるのは,どんな観光ツアーにも負けない贅沢なものだった。
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 ピチャンに到着したのは午後9時半ごろだったけれど,中国でも最も西に位置する新疆では,この時間でもまだ太陽が地平線の上にあった。
 ちなみに,ハミで大騒ぎしていた韓国人はこのバスの中にはいなかった。トルファンに行きたがっていた彼がハミに残り,ハミに泊まるつもりだった僕たちが先に進んだようだった。彼のお陰でこの日はかなりの移動ができたので,僕としては彼がその後どうなったのか少し気になった。

 このピチャンでもまた,トシ君は本領を発揮した。夕食後,スイカが食べたいといって彼は道端で小さめのスイカを一つ買い,宿で包丁を借りてこれを切って食べ始めた。僕も一緒になって食べ始めたけれど,既に夕食を食べているのですぐにお腹が一杯になり,スイカが半分余ってしまった。
 僕なら残りを部屋に置いておき,翌朝にでも食べようとしただろう。でもトシ君,何と宿の前の屋台で食事をしていたウイグル人の一団にためらわず近付いていき,そのスイカを食べないかと勧め始めたのだ。こうなるともう,旅の技術とか何とかいう前に,性格の問題だ。僕にはとても真似できない。

 最初は怪訝そうにしていたウイグル人たちも,そのうちそのスイカを受け取り,更にトシ君に椅子を与えて輪の中に入れてしまった。初めは少し離れたところにいた僕も,近付いていったところで彼らに捉まり,結局ビールや羊肉の串焼きを振舞われることになってしまった。
 そのうち彼らは,明日この街を案内してやると言い出した。さすがに僕もトシ君もトルファンに行くつもりだったのでそう言うと,それなら明日俺たちが連れて行ってやるといって電話番号を紙に書いて渡してくれたのだった。
 その後もビールを断りきれずに何杯か乾杯し,しばらくしてからようやく宿の部屋に戻った。


 そして翌朝,彼らの一人に電話し,トルファンまで来るまで連れて行ってもらった。最後にトルファンについてからお金のことで少しもめてしまって残念だったけれど,なかなか得がたい経験ができてよかった。トシ君とウイグル人たちに感謝。そして僕たちがピシャンへ来るきっかけを作ってくれた韓国人にもやはり感謝だ。

 いよいよここからは新疆だ。敦煌までは漢人が多かったけれど,さすがにここまで来ると目鼻立ちのくっきりとしたウイグル人が増えてきて,異国に来たような印象さえ抱いてしまう。僕の中国の旅の最終段階は,西域の更に西,中央アジアの香り漂うここ新疆が舞台となる。
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by Asirope2 | 2007-06-30 12:52 | 中国

莫高窟

 鳴沙山の砂丘を見た翌日,いよいよ敦煌観光のハイライト・莫高窟(ばっこうくつ)に行った。ここは隋代から宋・元代に渡って,岩山に700を越える仏洞が開鑿された場所で,洛陽の龍門石窟や大同の雲崗石窟と並んで,中国三大石窟と並び称されている。しかし何よりもこの敦煌の莫高窟を有名にしているのは,およそ100年前に一つの窟から発見された膨大な古文書の数々だ。

 これらの文書は11世紀に莫高窟の中の一つの仏洞に保管され,その入り口は塗り込められて壁と見分けがつかなくなった。その後,ここに文書が保管されていることを知る人がいなくなってしまい,清末の1900年になって偶然発見されるまで,実に900年にわたってずっと壁の中で眠り続けていたのだった。

 敦煌文書と呼ばれるこれらの古文書は5万点を越え,漢語の文献だけではなく,チベット語,モンゴル語,西夏語,ウイグル語など様々な言語の文献を含んでいる。その大半は仏教経典で,他にマニ教やゾロアスター教,景教(ネストリウス派キリスト教)などの文献もあった。世界の考古学史上でも最大級の発見で,歴史研究に計り知れない影響を与えたという。


 もちろん僕は歴史に詳しいわけでもなく,文書そのものに対する興味というのは井上靖の小説に大きく影響されたものだ。この小説は,これらの敦煌文書が莫高窟に保管されるに至った経緯を描いたフィクションで,この小説に心奪われた僕にとって,この莫高窟は長年にわたって憧れの場所だった。
 その莫高窟を,ついにこの目で見た。


 ちなみにこの莫高窟,旅行者の間ではすこぶる評判が悪い。やたら入場料が高く,変な修復がされて各窟の入り口にはドアが取り付けられていて,雰囲気もヘッタクレもない,という話をよく聞いていた。僕の敦煌への思い入れは相当なものなので,イメージが壊れるのを恐れて行くかどうか少しためらったくらいだ。
 でも,どんなものであれ自分の目で見ておきたい。そう思ってやはり行くことにした。


 実際に見てみた石窟寺院は,しかし面白かった。この上なく面白かった。英語ガイドの分かりやすい説明も実に良かった。隋代(1500年以上も前だ)や唐代の大仏やカラフルな壁画が今も残っていたり,唐代の古い壁画の上に宋代に薄く壁が塗り足され,新たな壁画が描かれていたりと,中国の歴史の重みを感じさせる見事な石窟がいくつもあった。
 ガイドの説明では,当時は文字の読めない人が多かったので,壁画で仏教説話や極楽の絵を描き,字の読めない人にも仏教の教えを伝えていたのだという。
 また,壁画には多くの天女(中国では飛天と呼ぶ)が描かれていたけれど,これがアプサラとも呼ばれていたのも僕の興味を惹いた。アプサラはサンスクリット語,つまり古代のインドの言語だ。インドのカジュラホの彫刻もアプサラであり,カンボジアのアンコールワットのレリーフもアプサラ。そしてここ中国西域にもアプサラだ。インド文化の影響力の大きさがここでも垣間見えた。


 ここ莫高窟では,ガイドが選んだ10ほどの窟を回る仕組みになっている。そしてどのガイドも最後に行くのが,現在は17窟と番号のつけられた仏洞だ。こここそが,敦煌文書の発見された窟だ。
 小さな入り口を入ると,細い通路を通って広い本堂にいたる。その本堂には大きな仏像が立ち,周囲の壁は壁画で埋め尽くされている。この本堂に入る手前の通路の壁に穴が開いていて,その中に小さな洞があった。ここに,5万点を越える文書が隠されていたのだそうだ。高さ3メートル,幅2メートルの空間にぎっしりと巻物が詰まっていたらしい。

 これらの文書は,イギリスやフランス,日本,ロシアなどの探検隊が中国国外へ持ち出したため,現在中国にはそのごく一部しか残っていない。しかし残った経典のいくつかが,仏洞の前の小さな展示館に展示されていた。
 中に入ってみてみると,非常に保存状態がよく,文字は明瞭で紙もほとんど痛んでいない。900年も洞のなかで保管されていたとは到底信じがたいようなきれいなものだった。これだけの質の資料が5万点も出てくるというのは,本当に当時の歴史学者たちも驚嘆したことだろう。
 井上靖の小説では西夏語の文献(西夏は11世紀ごろ中国の西北に興ったタングート族の王国)が特にスポットライトを当てられており,僕としては西夏語の文献の実物も見たかったのだけれど,これは展示されていなかったのが残念だった。


 ガイドに案内されての2時間はあっという間に過ぎていった。僕にとってはとても幸せな2時間だった。特に17窟を見たときは,自分がそこにいるというだけで有頂天になるほどだった。この莫高窟では写真の撮影が禁止されていたので,内部の全然写真は取れなかったけれど,17窟の風景は僕の脳裏にしっかりと刻み込まれた。僕はこれを一生忘れることはないだろう。

 莫高窟を退場し,車に戻る途中の道で,遠くに見える岩山の仏洞の写真を一枚だけ撮った。
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by Asirope2 | 2007-06-26 17:06 | 中国

ついに,敦煌

 酒泉の郊外にはいくつもの観光ポイントがある。でも,僕はどこにも行かなかった。実は,酒泉の街の雰囲気があまり好きになれなかったというのも理由の一つだ。安宿が見つからず,結構な値段のホテルに泊まらざるを得なかったという事情もある。でもそれ以上に,もう目前に迫った敦煌に行きたくて仕方がなかった。
 はやる気持ちを抑えきれず,結局酒泉も一泊しただけで翌朝バスターミナルに行った。おかげで酒泉の名前の由来となった泉もつい見損ねてしまったのだけれど…
 これで西寧以来3日続けてのバス移動となったけれど,念願の敦煌へ行けるという嬉しさで一杯だった。

 酒泉から敦煌まではおよそ6時間。昨日に続いての砂漠の旅だ。途中,嘉峪関(かよくかん)という,万里の長城の西端の関所なども見ながら西へ進んでいく。何より嬉しかったのは,途中で瓜州(かしゅう)という街を経由したことだ。この瓜州は小さな街ではあるけれど,小説「敦煌」の中で大きな役割を与えられている街だ。街の余りの小ささゆえに,僕の持っている地図には名前すら出ていない。もうなくなってしまったのかと思っていた。


 敦煌には夕方になって到着した。小ぢんまりとした雰囲気のいい街だ。とはいえここは中国を代表する観光の街。酒泉や張掖では見かけなかった白人観光客の姿も多い。宿のフロントでははじめ中国語でやりとりしていたけれど,実は英語も通じることが途中になってわかった。
 この日は時折強い風が吹いたり雨が降ったりしていたので,あまり外には出なかった。宿の部屋で地図を眺めていると,さすがにかなり西まで来たことを実感した。


 このところずっとバス移動が続いたので,到着の翌日は休養日にしようと決めていた。ところが朝起きてみると素晴らしい青空が広がっている。急遽予定を変更して身支度を整え,市バスに乗った。行き先は鳴沙山(めいさざん)。敦煌の名所の一つであり,中国西域随一の砂丘だ。

 市内からバスで10分ほどで,鳴沙山の入り口に着いた。そこには,予想もしなかったびっくりするような光景が広がっていた。おお,何だこれは!
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 興奮しながら入場料を払って中に入ると,そこには絵に描いたような砂漠の光景が広がっていた。
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 観光客向けに駱駝で砂丘の頂上まで上がるサービスもあったけれど,僕は自分の足で歩くのが好きなので,迷わずに砂丘の山に向かって進んでいった。
 朝早いとはいえ,太陽が直接照り付けてくる。しかも足元はずっと砂場が続くので歩きにくい。でも,歩くにつれて景色が少しずつ変化して,多彩な表情を見せてくれる。もう本当に,どこを見ても砂漠,砂漠,砂漠!
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 頂上まで上がると遠くが見渡せてきれいだった。砂丘の表面には風紋がきれいに現れているところもあった。
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 ついでに駱駝の写真も一枚。
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 あまりにも暑かったので,30分そこそこで頂上から降りることにした。


 この砂丘には本当に満足した。高校生の頃だっただろうか,井上靖の「敦煌」を読んで以来,ずっと憧れ続けていた敦煌で,これだけきれいな砂丘を見たら,もう文句はない。

 この小説のクライマックス付近で,経典を戦火から守るため,主人公の趙行徳が敦煌の街から近くの石窟寺院まで経巻類を運ぶ場面がある。

“行徳は一度背後を振り返ってみた。それぞれに重そうな大小の梱包を振り分けに積んだ駱駝の隊列は、冴え返った月光の中を一列になって黙々と行進していた。行徳は駱駝の背の荷物の中身が経巻であることを思ったとき、自分の背後に続く駱駝の隊列が異様なものに思えた。六十頭の大きい生き物が、それぞれ背負えるだけの経巻を背負って月光盛んな沙漠を行進している様は、しかとその正体は判らなかったが、ある感動的なものがあった。行徳はこの夜のために、あるいは自分は長く漠地を流歴していたのではなかったかと思った。”(井上靖「敦煌」より

 思い返せば,敦煌に行きたいあまり,旅行の予定もないのにこの地域のガイドブックを買ったこともあった。そのころはまだ海外経験もほとんどなく,言葉の通じない中国の,それも得体の知れない(とそのころは思っていた)西域に,一人で飛び込む勇気はなかった。敦煌に行くなら,好きではないけれど旅行会社の団体ツアーにでも参加するしかないのかなと思っていた。
 それがいつしか海外にも慣れ,気がつくとこうして一人でアジアを放浪し,中国を横断して遂に自力で敦煌まで来てしまった。そして敦煌ではツアーには参加せず,公共の市バスに乗って鳴沙山を見に行った。いつの間にか,それを苦もなくやってしまえるだけの旅の技術と経験を身に着けていたということだ。
 笑われるかもしれないけれど,小説の中の趙行徳と同じように,あるいは僕自身この敦煌へ来るために長くアジアを放浪していたのかも知れない。そう思えるだけの満足感と充実感を確かに胸に抱きながら,僕は鳴沙山を後にした。
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by Asirope2 | 2007-06-25 14:10 | 中国

敦煌への道(2) ~ 粛州 ~

“城壁に登って南に目を遣ると、雪をかぶった祁連(きれん)山が見え、北を望むとどこまでも黄灰色の沙漠の海が拡がっていた。場内には清澄な水を湛えた大きな泉があり、その岸には樹齢何百年かを数える、夥しい数の柳の老樹が植わっていた。ここは漢の時代の酒泉の地であって、泉の水は玉を瀉(すす)ぎ、味甘くして酒の如しと言われるところであった”

“粛州は、場内こそ人の住める土地であったが、一歩城外へ出ると、平沙万里人煙を断つという言葉がそのまま当てはまる、死の沙の海の拡がりであった。”

 - 井上靖 「敦煌」より



 張掖に一泊した後,次の目的地の酒泉(しゅせん/ジョウチュエン)に移動した。ここは粛州(しゅくしゅう)とも呼ばれた場所で,上に引用したように井上靖の小説「敦煌」でもその名で登場する。この一帯は甘粛省に属しているが,甘州とは張掖のことだから,このあたりはまさに甘粛の中心地だということになる。
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 張掖から酒泉までは約250km,バスで4時間ほどの道のりだ。このバス移動は,シルクロード気分を存分に堪能できるものだった。

 張掖を出てからしばらくは,道沿いに畑が広がり,麦,トウモロコシ,野菜などが一面に栽培されているのが見えた。かつては上に引用した記述の通りだったかもしれないけれど,現代ではこのまま酒泉まで畑が続いているのかもしれない。そう思ったりもしたけれど,大きな勘違いだった。道のりの半ばを過ぎた頃,唐突に耕作地帯が途切れた。

 もともとこの辺りは砂漠地帯で,張掖に緑が多いのは,祁連山脈から流れ出る豊かな水のおかげなのだ。人々は水路を縦横に張り巡らし,広大な耕作地帯を作り上げた。その水の供給がなくなると,もう途端に砂漠になってしまうのだった。

 砂漠とは言っても,多くの日本人が想像するような砂丘ではない。乾燥して硬く固まった砂と,石の世界だ。表面はまばらな雑草に覆われている。強烈な陽光に照り付けられたこの砂漠が,北に向かってひたすら地平線まで広がっていた。
 空は突き抜けるような青色で,真っ白な雲が浮かんでいる。随所で砂が大きなつむじ風に巻き上げられ,砂の柱が何本も立っているのが見える。ときどき水が流れた痕跡のような溝があったけれど,今は完全に干上がっていた。
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 南に目を向けると,同じように広がる砂漠の向こうに祁連山脈の峨々たる山々がどこまでも続いていて,その頂は雪で覆われている。大した距離ではないのに,こちらは砂漠であちらは雪。それだけ山が急峻ということなのか,あるいは砂漠の環境が苛酷なのか。

 この光景の中を,バスは延々と走り続けた。バスの周りに見えるのは,この砂漠と山と空だけ。それ以外に何もない。ひたすら広い砂漠と,ひたすら高い山だけが,空の下にあった。時折大型トラックや他のバスとすれ違ったり,遠くの線路を貨物列車が走るのが見える以外に,人の生活の痕跡はない。まさに冒頭の引用文に描写されたとおりの景色だった。かつてはここを通って,駱駝を引いた隊商や,馬にまたがった兵士たちが往来したのだろうか。
 空気が極度に乾燥しているので,すぐに唇の表面がカサカサに乾いてくる。ペットボトルの水があっという間に減っていった。

 時折,木々が茂っている場所があった。そういう場所には必ず小さな集落があり,トウモロコシや麦,葡萄などの作物が植えられていた。バスがそういう集落に入ると,それまで砂漠の中を走っていたのが嘘のように感じた。
 でもここでもやはり,集落の端で水の供給が断たれた途端にまた砂漠に戻る。そうなると今度は,さっきまで畑があったのが嘘だったような気になってくる。まさしくこれがオアシスというものなのだろう。まるで一時の幻のように,いくつかのオアシスが目の前に現れては後ろへ消えていった。


 そのうちに,規模の大きな森林地帯が見えてきた。これが,酒泉の端だった。しばらく進むと次第に民家や商店が現れ,そうかと思ううちにあっという間に普通の街に変わっていった。やがてバスは酒泉のバスターミナルに到着した。
 酒泉の街の周囲の風景は,これまで経験してきた中国の地方都市と何一つ変わらないように見えた。「敦煌」の舞台となった時代とは異なり,今ではこの街に城壁は存在しないけれど,街の中にいる限り,ここはやはり「人間の住める場所」なのだった。
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by Asirope2 | 2007-06-24 20:32 | 中国

敦煌への道(1) ~ 甘州 ~

 西寧は街の表情の多彩さといい,食べ物のおいしさといい,宿の居心地のよさといい,申し分のないところだった。僕が西寧に着いたのと同じ日に,日本人旅行者のHさんという人が同じドミトリー(大部屋)にやってきて,意気投合したというのも大きかった。青海湖へも一緒に一緒に行ったし,タール寺や日々の食事まで,ほとんどずっと一緒にどこへでも行っていた。
 そのHさんは,青海湖から戻った翌日の夜に,チベットのラサへ行くために旅立っていた。長旅をしていると,仲良くなった人と別れるというのはこの上なく寂しいものだ。Hさんの出発に追い立てられるように,僕も次の日の早朝に西寧を発った。行き先は張掖(ちょうえき/チャンイエ),かつて“甘州(かんしゅう)”と呼ばれた,西域のオアシス都市だ。

 僕は今回の中国の旅を,小説「敦煌」を追う旅にしようと思っていた。ところが,小説の最初の出発点である開封には行かず,西安の次は西寧に移動するなど,コースを外れっぱなしだった(西寧はシルクロードのメインルートから南に分岐したところにあり,南方のチベットへの玄関口となっている)。だから張掖へ行くということは,僕にとってはようやくシルクロードの旅を本格的に始めることを意味しているのだ。


 井上靖の小説「敦煌」では甘州という街は実に印象的な場だ。主人公の趙行徳が西夏軍の前衛部隊の一員としてこの甘州に入り,そこでウイグル族の王族の娘と出会う。この甘州は趙行徳とこの王族の娘のロマンスの場となったと同時に,この王族の娘が短い生涯を閉じた場所でもある。彼女の死をきっかけに行徳は仏教に傾倒していくのだけれど,それが物語全体の大きな伏線にもなっている。


 西寧から張掖までは,祁連(きれん)山脈の山あいを縫うようにして走るバスに乗る。この景色は非常に美しかった。
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 長途8時間,とは言っても広い中国では当り前でもう慣れたけれど,夕方4時頃にバスは張掖に着いた。西寧がずっと雨がちの天気だったので,張掖の青く抜けた空と陽光に輝く樹々の緑がまぶしかった。
 街に着くと,漢人が多いことに驚いた。しばらく西寧で漢人以外の民族が多い状態に慣れていたので,かなり雰囲気が違って見えた。街にはモスクもあったようだけれど,あの白いイスラム帽をかぶった人達は全然見かけない。街の食堂の看板にも“清真”の文字がない。外見上は,中国の平原部の地方都市と全く変わらない。


 街の中央には大きな鐘楼があったけれど,それ以外に過去をしのぶような風景は張掖にはあまりない。でも雰囲気はなかなかいい街で,到着してからしばらく街を歩き回った。
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 驚いたのは陽がなかなか沈まないことだった。ここ中国では,全土で同じ北京時間が採用されている。中国は東西に広く,おかげで西へ行くと朝は陽がなかなか昇らず,夜は陽が沈まないことになる。
 とはいっても,ここ張掖は西寧から見ればほとんど真北にあたる。西寧では夜9時前まで明るいなと思っていたくらいだったのが,ここ張掖では午後8時を過ぎてもまだ“夕日”が射しているのだ。西寧の西に青蔵高原があったからか,張掖では緯度が上がって昼が長くなったのかは分からないけれど,いつまでも明るい張掖の“夜”には戸惑ってしまった。


 小説「敦煌」では,ウイグルの王族の娘の死後,趙行徳が甘州の城壁に登って彼女の死を悼む場面が出てくる。でも残念ながら今は張掖に城壁はない。今の張掖に小説そのままの街を期待していたわけではないけれど,かといって余りにも見るものがないのも事実なので,張掖には一泊しただけで次の街に向かうことにした。
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by Asirope2 | 2007-06-24 20:25 | 中国

西寧の風景

 青海湖から戻ってきて,また西寧に泊まっている。この街はまだまだ一昔前の中国が残っていて,歩き回っていると面白い。
 街の大通り自体は,割と近代的になってきてはいる。
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 でも,ちょっと小さな通りに入るとバザールが広がっていたりする。野菜に肉に魚に,中国の食の豊かさを実感できる場所でもある。
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 バザールの一画で,緑豆を石臼で挽いて売っているのを見つけた。客がいなくなると,豆売りの兄ちゃんは将棋に夢中になっていた。ここに限らず,中国では将棋を指している光景をよく見かける。
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 スイカの向こう側に山積みになっているのはハミ瓜。薄味のメロンのような感じ。かなり大きくて,一個150円くらい。
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 中国でも少なくなってきた屋台が,ここ西寧にはまだ残っていた。でもどこにでもあるわけではなく,数はやはり少ない。ここでもそのうち,なくなってしまうのだろうか。
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 この街にはムスリム(イスラム教徒)が多い。イスラムでは,食肉は戒律に従って処理されたものしか食べることはできない。そのため,ムスリムの肉屋も多い。明らかに漢人とは異なる顔つきの人達が店番をしていた。
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 ここ西寧ではどういうわけか美味しい食堂が多い。適当に入ってもはずれた例がない。宿の近くの肉まん屋で食べた肉まんは,今までで一番おいしかった。皮は薄めでパサつかず粘りがあり,あんは肉汁がこぼれそうなほど。あっという間に僕の西寧での朝ごはんの定番になった。
 やはり宿の近くにある別の食堂でも何を注文してもはずれがなく,その二軒となりの麺屋の牛肉麺(ニューローメンと読む;ラーメンのこと)も,コシのある麺と牛骨ダシの効いたスープは,今まで中国で食べた中では一番だった。
 街を歩いていても食堂はあちこちにあり(これは中国ではどこでもだけど),その看板を見ているだけでも楽しい。どんな街にでもあるのが四川料理屋。“川菜”とあれば四川料理のことだ。青海湖畔の小さな街にもあった。
 西寧の街ではこんな看板を見つけた。牛に羊に魚がいっぱいで,それでも飽き足らずに絵まで描いている。わかりやすいことこの上ない。中に入って食べたことはないので味の方はよく分からないけど。
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 ちなみに“清真”というのはここがイスラム食堂だということだ。この街では食堂の大半は清真食堂だ。

 食べ物がおいしいというのは街の印象を決める重要な要素で,その点西寧は実に素晴らしい。ゆっくり長居しようよと囁く心の声に惑わされつつ,それでも明日出発することに決め,バスの切符を買いに行った。
 中国は余りにも大きい。中国に入ってから既に3週間以上経ったのに,まだ半分だ。先へ進まなければ。
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by Asirope2 | 2007-06-21 18:40 | 中国

青海湖

 実を言えば,西寧ではまたユースに泊まった。西安でもう二度とユースには泊まるまいと思った矢先で,ちょっと情けない。どうしてユースを選んだかというと,西寧の街の近くにある青海湖(せいかいこ/チンハイフー)に行きたかったからだ。西寧から近いとは言っても,青海湖は高山地帯にあるので交通の便が非常に悪い。青海湖へは旅行会社のツアーを利用するのが一般的という話を聞いていたので,ユースならツアーも取り扱っているだろうと,またユースに泊まったのだった。

 この予想は当たった。ユースで聞いてみると,確かにグループツアーがあるよと教えてくれた。でも結局このツアーには参加しなかった。ユースに着いたその晩,同じユースに泊まっていた中国人の学生カップルから,タクシーをチャーターして青海湖へ行くつもりだけれど,一緒に行かないかとお誘いを受けたからだ。渡りに船と,同じ大部屋に泊まっていた別の日本人旅行者のHさんという人も一緒に,4人で青海湖へ行くことになった。車の定員ちょうどになったので,学生カップルも安く上がると大喜びだった。
 僕はもともとは一日ツアーに参加しようと思っていたけれど,学生カップルの希望で湖畔に一泊することにした。これはもちろん僕にとっても大歓迎の予定変更だ。青海湖は琵琶湖の6倍以上,とにかく大きい。一日ツアーだと少し慌しいのだ。

 青海湖は中国最大の塩水湖で,西寧から西に約200kmのところにある。湖面の標高はおよそ3200mで,かなりの高地だ。高山病が少し気になったけれど,去年キルギスでいきなり3000mのところまで行って全く問題なかったし,今回は既に標高2200mの西寧に二泊している。この高度ならまず大丈夫だろう。


 当日は朝8時にタクシーに乗り込み,いざ出発した。この日は残念なことに天候が悪かった。空一面厚い雲に覆われている。それでもしばらく走るうちに,菜の花畑が広がっている場所に出た。ちょうど花が咲く季節で,一面に黄色い絨毯を敷き詰めたようになっていた。曇り空の下でもこれはきれいだった。
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 途中の街で小さなチベット寺院を訪れたりしながら進むうちに,だんだん周囲の景色が変わってきた。木が少なくなってきて,牛や羊の群れを見かけるようになってきた。標高が上がってきたのだ。運良く雲も薄くなってきて,時おり日が差すこともあった。
 ときに牛の群れが道いっぱいに広がって歩いていたりもする。
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 ここまで来ると空気も“下界”より澄んでくるようで,遠くの山も見通せてなかなかの景色だった。あれが祁連山脈だよとタクシードライバーが教えてくれたのを,英語の達者な中国人学生が通訳してくれた。
 祁連山脈といえば,シルクロードでは必ず名前の出てくる山だ。それが実際に見えていると思うと嬉しくて仕方がない。あの山の向こう側に,シルクロードが通っているのだ。これで天気がよければ最高だったのに…
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 途中の街で昼ごはんを食べた後またしばらく走って,いよいよ青海湖に到着した。着いたのは青海湖の西端,西寧から一番遠い場所に当たる。ここには鳥島という島があり,その名の通り無数の野鳥がやってくる。その営巣地は自然公園になっていて,観光客はその中の一部にだけ入ることができる。気になっていた高山病も全く問題なく,意気揚々とチケット売り場へ。

 中に入ると,電動自動車が待っていた。観光客はこれに乗り,見所を移動する。最初の場所の名前は「蛋島」といった。日本語だと“たまご島”という意味だ。ここでは野鳥が群れをつくって産卵していた。卵はあちこちにゴロゴロと無造作に転がっていて,温められている様子はなかった。もう雛が生まれた後なのか,もともとこういう鳥なのか,僕にはよく分からない。
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 この辺りは野鳥が集まってくるポイントということで,景色を眺めていると,実際に鳥の群れがV字の列を作って飛んでいるのも見ることができた。
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 この次のポイントは何というところか忘れてしまった。とにかく鳥がたくさんいた。
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 青海湖は天候がいいときには,太陽の位置や湖の深度によって無限に色調を変えるという話だった。でも残念ながらこの日は結局ずっと雲が多く,湖はその本当の美しさを見せてはくれなかった。
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 この日はこれで観光を終え,近くの街に泊まった。小さな街で,高地ゆえに木のない一面の草原の中に突然現れたようなところだった。よくこんな場所に街ができたものだと感心したけれど,電気も通っていて,宿や食堂が一通りそろっていた。
 宿に入った後,みんなで夕食を食べに行った。中国人学生たちは明るい性格でこの頃には完全に打ち解けていた。タクシードライバーのマシンガントーク(中国語)も絶好調。賑やかで楽しい夕食会となった。

 宿に戻って翌日の予定を確認した後も,彼らの旅の予定を聞いたり,僕の旅の写真を彼らに見せたりと楽しい会話は続いた。
 その晩は,翌朝天候が回復することを祈りつつ早めに寝た。


 次の朝起きてみると,なんと最悪の雨。天気がよければ早朝に日の出を見に行こうと相談していたけれど,これはやむなくキャンセル。街で朝食を食べて9時頃に出発した。

 この日は天気は悪かったけれど,周囲の景色はなかなかのものだった。前日は湖の北側を回って西端の鳥島へ行ったので,この日は南回りのルートを取った。一面に草原が広がり,そのあちこちに牛や羊,馬が放牧されている。僕は灰色一色の湖は見ずに,山の景色ばかり眺めていた。
 天候がよければもっと違った見え方をしただろうけれど,これはこれで充分にきれいだった。途中何度も車を停めてもらい,爽やかな空気を胸一杯に吸い込んだり写真を撮ったりと,楽しい時間だった。
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 昼過ぎに西寧の宿に戻ると,中国人学生の二人はすぐに敦煌へ向けて出発していった。西寧に一泊くらいしていくと思っていたので,彼らの若さ溢れる行動力に驚いた。今後彼らと再会することはもうないだろうと思うけど,これもまた旅。いい出会いだった。
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by Asirope2 | 2007-06-20 22:27 | 中国

チベットの入り口

 西安発の夜行列車は朝7時前に蘭州(らんしゅう,中国語ではランジョウ)に到着した。列車を降りると,う~,寒い! 蘭州はもともと標高が1500メートルと高い上に,このときは雨が降っていた。慌てて長袖のシャツを羽織る。2月に日本を出たとき以来,寒いと思ったのはこれが初めてだった。

 西安は結局3泊しただけで移動した。もともとあまり長居するつもりがなかったので,西安に着くとすぐに蘭州行きの夜行列車の切符を取っていた。中国では寝台の切符はすぐに売り切れるので,当日や翌日の寝台券を入手するのはかなり難しい。とはいえ,ある程度以上の距離の移動になるとバスより寝台列車の方がはるかに楽なので,どうしても先を見越して数日前に切符を買いに行くことになる。
 でも今回は,ちょっと失敗したなと思った。夜行列車に乗る当日になって西安のモスク(清真大寺)を見に行って,西安の街の持つ表情の多彩さに惹きつけられてしまった。こんなに面白い街なら1週間でも滞在したいと思った。でも既に切符は取ってしまっている。後ろ髪を引かれる思いで西安を後にしたのだった。
 ただ,そんな思いもじきに消し飛んでしまった。西安の後には,さらに多彩な表情を持つ街が僕を待っていた。


 蘭州に到着した僕は,すぐに駅近くのバスターミナルに歩いていった。蘭州もシルクロードの重要拠点のひとつではあるけれど,今回の僕にとっては中継地点。バスターミナルで,さらに西にある西寧(せいねい/シーニン)という街に行くバスに乗った。
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 西寧はシルクロードの街というよりは,その南にあるチベットの入り口として知られている。最近開業した青蔵鉄道はここ西寧とチベットの中心地ラサを結ぶ。途中標高5000メートル以上の峠を越え,絶景を楽しめる青蔵鉄道の切符は既にプラチナチケットと化していて,その入手は困難を極めるという。
 ラサの標高は実に3700メートル。去年ネパールで高山病になり,死にそうな思いをした僕にとっては,チベットは憧れてはいても実際に行くのはためらってしまうところだ。だから西寧でチベットの香りだけでも楽しもうと,今回ここへやってきた。

 西寧は標高2200メートルと,蘭州よりさらに高いところにある。当然寒い。着いたその日のうちに防寒着を買いにいったほどだ。ここはそれほど大きな街ではなくそこそこの地方都市という程度で,都会嫌いの僕にも馴染みやすい。
 街を歩いていて気付くのは,イスラム教徒の多さだ。西安ではモスク周辺を除けばときどき見かける程度だったイスラム教徒の姿が,ここ西寧ではどこにでもいる。そのムスリムたちの顔つきも,漢民族のそれではなく,去年キルギスで見かけたようなモンゴル系に近いような感じだ。食堂の看板を見ていても,今まであまり見なかったメニューが一気に増えた。特に羊の料理が増えたという印象を受ける。
 西寧は地図を見ただけでは中国のほぼ真ん中にあるように思えるけれど,文化的・歴史的には中国の“辺境”だ。この西寧の表情の多彩さを見ていて,中国が世界有数の多民族国家であることに今更ながら気付かされる思いだった。

 ちなみに街ではチベット系の人達はほとんど見かけない。今ではチベット文化は完全に,ラサを中心とするチベット自治区の方に移ってしまったのだろうか。
 それでもここ西寧はかつて吐蕃(とばん)という国が都とした街だ。“吐蕃”というのは“チベット”の中国語への音訳だから,つまりはかつてのチベットの中心地なのだ。その名残は,西寧の街からバスで1時間ほどのところにあるタール寺というところに色濃く残っていた。

 タール寺はかつてチベット仏教の総本山のような場所だったらしい。今でもこの辺りのチベット文化の中心であることは間違いないようで,どこから集まってくるのか,タール寺に行くとチベット系の顔つきの人達が非常に多かった。これを見てつい,去年ネパールでトレッキングをしていたときのことを思い出してしまった。あそこの人々もチベット系で,トレッキングエリア一帯にチベット仏教の文化が根付いていた。

 チベット寺院を実際に見るのは今回が初めてだった。日本やタイの寺はもちろん大きく違う。中国寺院の様式の影響は受けているようだったけれど,でもどこか違う。もう少し土臭い雰囲気だった。
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 寺院の内部は撮影禁止の場所が多く,あまり写真が撮れなかったが,その事情はよく理解できた。ここでは真摯に祈りを捧げている人が多く,まさに信仰の場だったからだ。チベット仏教では五体投地といって,体を地面に投げ出してうつ伏せになり,また起き上がり,そしてまたうつ伏せになる,というのをひたすら繰り返して祈りを捧げる。数多くの僧や信者がその五体投地に励んでいた。厳粛な空気が漂い,興味本位で写真を撮れる雰囲気ではなかった。
 
 あるお堂に入ると,薄暗い中で4人の僧侶が経文の詠唱を行っていた。単純な節回しとハーモニーながら,その低く響く歌は寺の厳粛な雰囲気を一層引き立て,印象的だった。これで中国人団体客を引き連れた中国人ガイドの,長々と続く無神経な解説の声がなければ言うことはなかったのだけど。
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 ちなみに上の写真の筒状のものはマニ車といい,中に経文が入っているらしい。これを一回まわすとお経を一回唱えたのと同じ効果があるというものだ。滑稽に思える点がないわけではないけれど,回している信徒たちは真剣だ。

 このタール寺は標高が2500メートルを越える場所にあり,さすがに歩き回っていると疲れてしまった。帰りのバスは完全に眠りこけてしまい,気がついたときには西寧に戻っていた。その西寧で,到着した日に見つけた美味しい食堂に行って夕食をとった。どういうわけか,ここ西寧では美味しい食堂が多い。辺境と言いながらも,中華漢人文化のいいところはしっかり根付いている街なのだ。
 この街は長居しそうだなと,ふと思った。
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by Asirope2 | 2007-06-20 18:40 | 中国

西域の玄関口 ~ 西安(3)

 西安の市内にある清真大寺というところに行ってみた。清真寺というのは中国語でモスクのことだ。ここ西安は西域への玄関口であり,ということは西域からの文化が流入してくる場所でもあるのだ。
 この清真大寺が非常に面白かった。

 観光客向けの土産物屋が並ぶ細い路地を抜けると,清真大寺のあまり目立たない入り口があった。ここに入って戸惑った。本当にこれがモスクなのかという感じだった。イスラム帽をかぶった人達がいなければ,仏教寺院といわれても納得してしまいそうな場所だった。
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 ただ,よく見ていくと随所にアラビア文字の装飾がある。コーランの一節だろうと思うけれど,こういうのがあるのはやはりモスクだ。礼拝堂の柱には華麗な装飾文字が彫られていた。
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 このモスクは僕には非常に興味深い場所だった。西から伝わってきたイスラム教が中国で受容される。異なる二つの文化が混ざり合って独特の風景を作り上げているのだ。イスラム教がこの地に伝わってから長い時間が経っている。伝統的な中国建築にアラビア文字,イスラム帽にイスラム服を身に着けた信者たち。一見異質とも思える諸要素が,落ち着いた調和を見せて静謐な空気を生み出していた。
 このモスクはまさに異文化の接点としての西安を象徴するような場所だった。

 僕が行ったときはちょうど礼拝の始まる時間だったようで,信者たちが三々五々あつまってくるところだった。みな礼拝堂の中に入り,それぞれに熱心な祈りを捧げていた。他にも多くの観光客はいたけれど,お祈りの邪魔をすると悪いような気がして,僕はその場を立ち去った。
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 清真大寺の外にはイスラム食堂などが並ぶ一画がある。ここでは羊肉や牛肉を串焼きにして売っていたり,中央アジア式の丸いパンがあったりと,西からの文化の影響が色濃く漂っている。香港から始まって中国の平原部をひたすら北上し,それから西へ来てやっと西安にたどり着いた僕には,この光景は強烈に異国の香りを放って見えた。

 僕は今まさに西域の入り口に立っているのだ。突然そんな思いがこみ上げてきた。いよいよ陸のシルクロードの出発点まで来たのだ。
 西へ進もう!
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by Asirope2 | 2007-06-16 18:28 | 中国