カテゴリ:中国( 29 )

総集編(5)~ 中国

 香港から“国境”を越えていよいよ中国本土の旅のスタート。最初に訪れたのは,湖南省の張家界(ちょうかかい)の街。ここからバスに乗って小一時間,世界遺産にも登録されている武陵源(ぶりょうげん)の国立公園に行ってみた。水墨画さながらの景色が広がる。
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 張家界から少し離れたところに,鳳凰古城と呼ばれる街がある。古い中国の風景を残した,中国人の心のふるさと。ここで泊まった宿のスタッフは,僕の中国人に対する先入観を一変させるほど親切だった。
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 張家界からさらに中国を北上。三国志の三顧の礼の舞台となった襄樊(じょうはん),いくつもの王朝の都となった洛陽(らくよう)を経て,世界遺産の街・平遥(へいよう)へ。明・清代の城壁の残る街。
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 平遥から先は進路を西に変更し,古都西安(かつての長安)へ。ここの見所は兵馬俑。ものすごい数の像が,本当に一つひとつ個性的な顔つきで並んでいた。
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 そして西域の入り口・長安を象徴する清真大寺。仏教寺院のような佇まいのモスクに,ムスリム帽の信者たち。
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 西安の次は,シルクロードの本流を少しそれて,チベットの入り口・西寧(せいねい)へ行った。中国最大の塩水湖・青海湖には多くの野鳥が集まるため,自然公園として環境が保護されている。
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 西寧から祁連(きれん)山脈を越えると,またシルクロードへ出る。甘州(今の張掖),粛州(今の酒泉)を経て,長年の憧れの地・敦煌(とんこう)へ。鳴沙山の見事な砂丘に感激した。
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 井上靖の小説で描かれた莫高窟(ばっこうくつ)の蔵経洞にも行った。僕のシルクロードの旅のハイライトだった。


 西遊記の火焔山のモデルとなった山あいに,ベゼクリク千仏洞という遺跡がある。新疆ウイグル自治区のトルファンから車で30分ほどのこの遺跡は損傷が著しい。でも,想像力を羽ばたかせれば,昔日の賑わいが思い浮かんでくる。
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 その後,新疆ウイグル自治区の区都ウルムチまで行き,中国横断を完了。香港からほぼ一直線に駆け抜けて1ヵ月半,中国のとてつもない大きさには参ってしまった。


【中国旅行情報】

・宿
 どんな街にも宿はある。安宿が多いのは,たいていバスターミナルや鉄道駅周辺。問題は,安い宿には外国人が泊まれない場合があること。名前に“飯店”,“賓館”とつく宿はたいてい泊まれる(でも高い)。
 安いのは“招待所”,“住宿”と書かれた宿。断られる可能性はあっても,まずはフロントで尋ねてみよう。
 ちなみにトイレが共同の場合,まず間違いなく(とんでもなく)汚い。
 観光客の多い街にはユースもあり,ドミトリーで30~50元(500~800円)くらい。特別に安いわけではないけど,ウルムチのように安宿の少ない街や,どうしても英語が通じないと困るという場合にはお勧め。

・食事
 中華料理は日本人の強い味方。メニューは分かるようで分からない名前の料理が並んでいるけど,色々な料理を試してみるのも楽しい。朝食には包子(肉まん)や小龍包もおいしい。ちなみに中国の南半分はご飯(米飯)が安く,北半分は麺料理が豊富。個人的に一番ご飯のおいしかった街は西寧。
 新疆地区に行ったらラグマン(拌面:バンミェン)がおいしい。

・移動
 街なかの移動は市バスが便利。たいてい一乗り一元(16円)。都市間の移動は列車またはバスで。長距離列車の寝台は比較的安くて快適だけど,3日前くらいには切符が売り切れる。予定が決まったらすぐに買おう。

・言葉
 大都市の若い人を除けば,英語はまず通じない。日本人は漢字が読めるとはいっても,中国では字の使い方が違う場合も多く,実際には書かれた中国語も3割くらいしか理解できないという感じ。ある程度は基本的な中国語の言い回しを覚えた方が便利。
 とはいえ,漢字が読めるのは欧米人に比べると大きなアドバンテージ。バスの行き先がわかる,どれがレストランかわかる,レストランのメニューを見て内容が推測できる,男子トイレ・女子トイレが区別できる,というのは日本人の特権。思い切って漢字の本場に飛び込もう。

・宗教
 漢民族の宗教色は薄い。新疆はイスラム,チベットはチベット仏教など。民族・地域によって信仰の度合いはさまざま。

・通信
 意外や意外,中国はインターネット大国。どんな街にもインターネットカフェはあり,通信も速い。ただしサイトによってはアクセス規制あり。BBCのサイトはつながらなかった。

・備考
 漢民族エリアの治安は非常に良い。反日感情は(たぶん南京などに行かない限りは)目立って表に出てくることはなかった。こちらが相手に敬意を持って接すれば,向こうも一人の人間としてこちらに接してくれるという感じ。
 新疆地区はバザールなどでのスリ・引ったくりに注意。不用意に貴重品を出すべきではない。

 中国の旅の全記事はこちら。
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by Asirope2 | 2007-09-18 17:04 | 中国

総集編(4)~ マカオ・香港

 マカオは去年の旅の最初に下町の面白さの虜になった街だ。カジノの街として有名なマカオだけれど,ここもマレーシアのマラッカやインドのゴアと同様にポルトガルの植民地となった歴史を持つ。
 世界遺産にもなっている中心部のセナド広場には,ヨーロッパ式の建物が並んでいる。
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 でも,ここから縦横に延びる,入り組んだ細い路地に足を踏み入れると,古い中国の風景が残っている。
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 マカオの中心の丘の上には,聖パウロ教会跡。
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 マラッカ,ゴア,マカオの古い教会を頭に思い浮かべると,海のシルクロードと大航海時代のイメージが鮮やかにできあがる。

 居心地のいいマカオからフェリーで香港へ移動。穏やかなマカオとは異なり,香港は活気がある。
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 九龍半島と香港島の間では,夜になると光のショーをやっていた。公園には地元の人々も集まってくる。
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 でも,今の香港は東京や大阪と余り変わらない空気を持っていた。

 香港で中国ビザを手配し,いざ中国本土へ!


【香港・マカオ旅行情報】

・宿
 土地の狭い香港・マカオは宿代が高い。香港には重慶大厦(チョンキンマンション)という安宿の集合体があるけれど,それでもドミトリーで1000円くらいから。エアコン付きのシングルだと一泊2500円くらいする。
 マカオはもっと安宿が少ない。中級宿でシングル2500円~。

・食事
 当然中華が主体だけど,香港はたぶん何でもある(吉野家だってある)。ちなみに香港のワンタンメンは絶品。一杯10香港ドルくらいからあるけど,20香港ドル(300円)くらいのが本当においしい。重慶大厦にはインド人が多く,おいしいインドカレーも食べられる。
 マカオも基本的に香港と変わらないけれど,他にはポルトガル料理もある(僕は食べたことがないけど)。聖パウロ教会跡付近にはカスタードタルトを売る店が多い。安くておいしい。Don't miss it!

・移動
 マカオは歩いてもある程度の範囲は回れる。遠くへ行くならバスが便利。香港は地下鉄がかなりの範囲をカバーしている。あとはタクシーしかない。

・言葉
 英語がかなり通じる(特に香港)。最近は大陸からの中国人観光客が多いので中国語(標準語)も通じるというけれど,この地域の地方語は広東語。

・宗教
 宗教色は薄い。日本と同じ。

・通信
 香港の重慶大厦にはインターネットカフェ多数。非常に速い。マカオではネットカフェが街なかに点在。通信は速いけど日本語が使えない場所も多い。頑張って探そう。

・備考
 香港は世界で最も中国(本土)ビザが取りやすい場所。30日ビザだけでなく,60日,90日,180日などといった長期の観光ビザが3日ほどで出る。ダブルビザも可。重慶大厦の旅行代理店で,90日シングルビザが手数料込みで3000円くらいだった(2007年5月の情報)。

 中国の旅の全記事はこちら。
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by Asirope2 | 2007-09-17 13:11 | 中国

中国横断完了

 敦煌で出会ったトシ君とはトルファンでもずっと同じ宿に泊まっていた。二人の観光の興味の対象や生活パターンが全く違うので,同じ部屋に泊まっていながら常にどちらかが部屋にいなかったり,どちらかが寝ていたりしてはいたけれど,やはり同行者がいるというのは心強かったし,夜になって(珍しく)二人とも部屋にいるとき,旅について語り合ったのも楽しかった。彼の感性と経験に裏付けられた話は,僕にはとても大きな刺激だった。

 そのトシ君ともついにお別れのときが来た。二人の進路が重なっているのもトルファンまで。このあと彼は,トルファンの南西にあるカシュガルという街へ向かっていく。そして僕の目的地は,トルファン北西のウルムチという街だ。暑くはあっても魅力的だったトルファンに別れを告げ,そして強烈な印象を僕に植え付けてくれた“相棒”トシ君にも別れを告げて,僕はウルムチ行きのバスに乗った。
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 トルファンからウルムチまでは200km足らず,バスは2時間半ほどで到着した。新疆ウイグル自治区の区都であるウルムチは高層ビルの建ち並ぶ近代的な大都市だった。標高900mと少し高いところにあるので,トルファンと違って涼しく過ごしやすい。ウイグル人の姿も当然目立つけれど,トルファンに比べると漢人の比率が目立って多く,エキゾチックな雰囲気は薄い。


 そのウルムチに来て,僕はフーッと大きく深呼吸するような気持ちだった。香港から中国本土に入ったのは一ヶ月以上前だ。このウルムチが中国で滞在する最後の街になるので,ということは,これでようやく中国横断を果たしたことになる。
 もう本当にウンザリするくらい大きな国だった。移動しても移動しても地図上では少ししか進まない。一体いつになったらウルムチに辿り着くのだろうかといつも思っていた。中国横断を果たした自分へのご褒美として,少し高めのホテルに2泊することにした。

 でも実を言うと,当初は僕もトシ君と同じようにカシュガルへ行こうと思っていた。けれども余りに大きな中国にちょっと飽きてしまって,だんだん次の国に早く行きたくなってきたというのが本音だ。
 中国の次の目的地は西の隣国キルギスなのだけれど,その首都ビシュケクは,途中カザフスタンを経由すれば,カシュガルから行くよりもウルムチから行った方が早い。そういうわけで,ここウルムチが中国最後の街となったのだった。

 ウルムチでは,観光のかたわらカザフスタンのビザを取ったり,カザフスタン行きの切符を手配したりする。ここには一週間ほど滞在する予定だ。
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by Asirope2 | 2007-07-02 19:05 | 中国

悠久トルファン

 ピシャンからトルファンに着いて最初の印象は,「暑い」の一言に尽きた。「火州」の異名を持つトルファンの夏は中国で一番暑いと言われていて,50℃という気温を記録したこともあるという。敦煌の莫高窟を見に行ったときも,この後トルファンに行くとガイドのお姉さんに言うと,「昨日のトルファンは48℃まで上がったそうですよ」と言われて絶句してしまった。僕が着いた日も,明らかに40℃に達していた。
 しかしそのトルファンは,よく見てみるとただ暑いだけではなく,中国文化とウイグル文化,更には西方の諸文化と歴史の交錯する,魅力的な街だった。

 トルファンの街を歩いていてまず気付くのは,ウイグル人の多さだ。ウイグル自治区なんだから当り前といえば当り前なのだけれど,西域とはいえ甘粛省の敦煌がほぼ漢人の街と言っていいのに比べ,ここまで来ると西アジア系の彫りの深い顔立ちの人々が通りを行き交い,ここがまだ中国だということが不思議な感じがするくらいだ。バザールなどを見ているとむしろ,去年行った中央アジアのキルギスを思い出す。

 ここトルファンでは葡萄の栽培が盛んで,街なかにも葡萄棚がアーケードのように通りを覆っている場所がある。僕はトルファンに来たら名産の葡萄を楽しもうと思っていたのだけれど,残念ながらまだ少し時期が早いらしく,店先には出回っていない。そのかわり葡萄棚には,若々しい緑色のたくさんの房がぶら下がっていて,見ていて爽やかな気分になる。
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 この辺りでは取れた葡萄はそのまま食べるほか,干しブドウにしたりワインを造ったりするそうだ。トルファンのワインは歴史が古い。唐の時代には既に作られていたらしく,唐がこのトルファン盆地にあった高昌国を併合したときに初めて中華世界に伝えられたという。そしてそれが後に,王翰の有名な涼州詩を生んだ。

“葡萄の美酒 夜光の杯
 飲まんと欲すれば琵琶馬上に催す
 酔うて沙上に臥すとも 君笑うこと莫れ
 古来征戦 幾人か回(かえ)る”

 これほど異国情緒に満ち,切実で,しかも華麗な詩はほかにないだろう。僕はこの詩が好きで,敦煌の土産物屋で夜光杯を買っていた。あとはトルファンで“葡萄の美酒”を買って,その夜光杯で飲もうと思っている。普段僕はお土産に何かを買うということはしないのだけれど,これだけは西域へ来るささやかな楽しみの一つだった。


 ただしワインが目的でトルファンに来る人は余りいないだろう。ここトルファンには,なかなか興味深い場所がいくつかある。その中でも最も有名なのは,何といっても火焔山だろう。西遊記の中で玄奘一行が火の山に出会って行く手を阻まれる。孫悟空の活躍で牛魔王から芭蕉扇を手に入れ,風を起こして山の火を消して,ようやく一行が山を越えることができた,という場面がある。
 これはもちろん作り話だけれど,トルファンにある火焔山はそのモデルになったといわれている。確かにこの暑さの中で火が燃えているような山肌を見ると,そういう話ができても不思議はない。
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 この火焔山はところどころ川が横切っている。
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 その川沿いに上っていくと,ベゼクリク千仏洞という遺跡がある。敦煌の莫高窟と同じく,山肌に開鑿された仏洞だ。これらの仏洞を作ったのは,イスラム化する前に仏教を信奉していたウイグル人ということだった。
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 残念ながら,ここベゼクリクの仏洞の壁画は損傷が著しい。砂に埋もれて長く忘れ去られ,そのお陰で荒廃を免れた敦煌石窟とは違い,ここトルファンでは常に人々の生活があった。ウイグル人がイスラム化したときに,偶像崇拝を嫌うイスラム教徒が仏洞の多くを破壊したという。でもガイドの話では,ベゼクリクの壁画が失われた原因はそれだけではないという。

 敦煌石窟の膨大な文書が,イギリス人やフランス人,日本人などの探検家によって持ち出されたように,ここベゼクリクでも貴重な壁画がドイツ人探検家によって切り出され,ドイツへと運ばれたという。それがそのままであればドイツの博物館で大切に保管されただろうけれど,残念ながら第二次大戦中の爆撃で貴重な壁画は失われてしまった。
 そして,わずかにベゼクリクに残された壁画も,文化大革命の際に,宗教を嫌う中国共産党の手で壊滅的な被害を蒙った。仏像は爆薬で破砕され,壁画に描かれた仏陀や菩薩などは,その顔の部分を削り取られてしまった。かつては鮮やかであっただろう壁画の,もはや痕跡とも残骸ともつかないものを見ていると心が痛んだ。

 今は訪れるものの少ない静かなベゼクリク千仏洞で風のそよぐ音を聞いていると,しかし,昔日の賑わいが鮮やかに思い浮かんできた。袈裟を着た何人もの僧侶たちが,日中でも涼しい石窟の中で経典を研究し,あるいは仏教談義にふける。その彼らの周囲を,色鮮やかな絢爛たる壁画が囲んでいる。陽の光は今と同じように明るく,木々の緑が盛んな中を川が水面をキラキラと輝かせながら流れ,爽やかな風がそこを吹き抜ける。工人や彫刻家,画家といった人々が集まって新しいを石窟をつくり,現世に極楽浄土を創り出そうとしている。
 落ち着いた中にも華やかさと活気のある,1500年前の風景が蘇ってくるようだった。
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 遠い歴史の彼方に思いを残しながら次に向かったのは,ベゼクリクより更に古い,交河故城というところだ。ここは遥かに紀元前まで,その起源を辿ることができる。かつて入り口の門だった岩は,今はもう風化が進んで穴の開いたただの岩くれにしか見えない。
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 ここ交河故城は,岩場の上に石やレンガを積み上げたのではなく,その岩場自体を削って下向きに空間を作っていった場所なのだそうだ。はじめは車師(しゃし)族という民族がここを拠点とし,後の漢や唐の時代には,中国の王朝が西域の拠点としたこともあったという。
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 古い井戸の跡もあった。今は乾いて強烈な日光にさらされたここも,昔は人々が集まって井戸端会議に夢中になっていたのだろうか。
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 ここも昔を偲ぶには絶好の場所だったけれど,昼近くなってあまりにも暑くなってきたので早々に引き上げた。トルファンでは夏場に外を歩き回れるのは早朝と夕方くらいだ。観光は時間との勝負でもあるのだった。
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by Asirope2 | 2007-06-30 13:01 | 中国

新疆へ

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 敦煌は居心地のいい街だった。しかも長年にわたって僕の憧れの地だった。その敦煌にもいよいよ別れを告げ,先へ進むときが来た。次の目的地は更に西にある新疆(しんきょう/シンジャン)ウイグル自治区のトルファンという街だ。ただし敦煌からトルファンへの直通バスはないので,途中にあるハミという町を目指した。
 いつもなら一人で向かうバス停だけれど,今回は同行者がいた。莫高窟で同じグループに入って見学し,その莫高窟では「今日,上海から夜行で着いてすぐに来ました」とさらりと言って僕を驚かせ,宿のドミトリー(大部屋)に戻ってみると実は部屋まで一緒だったという,日本人旅行者のトシ君だ。彼はアジア・欧米・中南米と世界中を訪ね歩いている筋金入りの旅行者で,僕のような“なんちゃってバックパッカー”とは格が違う。少し一緒に過ごしただけでも,言葉の壁も何のその,どんどん何にでも飛び込んでいくその姿は僕にはかっこよく見えた。
 彼は敦煌を一日見て回ったあと,もう観光は終わったからと一泊だけで次の街へ向かうということだった。その前は夜行列車内で2泊しているはずなのに,何という体力。

 ハミ行きのバスは順調に6時間で目的地に到着した。ただ,普通ならバスは街のバスターミナルが終着のはずなのに,このバスは街なかのガソリンスタンドに停まった。少し歩き回って現在地を確認しようかとバスを降りかけると,同じバスに乗っていた年配のおじさんがドライバーに何やら声高に叫んでいる。このおじさん,実は韓国人旅行者で,バスターミナルまで行ってくれ,と要求していたのだった。俺はトルファンへ向かう途中なのだけれど,バスがなければ今日はこの街のゲストハウス(安宿)に泊まるから,バスターミナルまで行ってくれ,と頑張っているようだった。

 ドライバー氏は分かった分かったという風にうなずきながら,お前たちはどうするかと,僕たちに向かって尋ねてきた。僕もバスターミナル近くに宿を取って翌日トルファンに向かおうと思っていたので,ありがたく連れて行ってもらうことにした。

 バスが出るまで少し間があったので車内に座っていると,外でトシ君がドライバー氏と会話している姿が見えた。さすがだなと思いながらその場に行ってみると,今日の夕方4時ごろにトルファンに行くバスがあるらしい,とトシ君が教えてくれる。二日かかると思っていた移動が一日で済むのならありがたい。こういう情報収集力も見習わなければ。

 しばらくしてバスはバスターミナルに移動した。僕はてっきり街の中心部にあるバスターミナルに行くのかと思っていたけれど,バスが着いたのは街外れにもう一つある南ターミナルだった。そこで聞いてみると,夕方の4時半にピチャン(鄯善/シャンシャンともいう)という,トルファンの手前にある街まで行くバスが出ていて,そのピチャンでトルファン行きに乗り換えるということだった。トルファンへの直通バスは午前中に一便しか出ていないらしい。

 それならやっぱりハミに一泊しようかと思っていたら,トシ君が「ハミは大きな街だし面白くなさそうだから,ピチャンに行ってみた方が面白いんじゃないですか?」と言う。それもそうだ。この発想が素晴らしい。ということで早速ピチャン行きのバスの切符を買った。

 敦煌からハミまでの6時間の移動に続いて,今度はハミから5時間かけてピチャンまで移動した。それはいかにも退屈だっただろうと思うかもしれないけれど,この道中の景色が素晴らしかった。地平線まで続く荒涼とした沙漠と岩山の風景を,時折オアシスの鮮やかな緑や,赤茶けた地面が彩る。何物にも邪魔されずに一日中この景色を眺められるのは,どんな観光ツアーにも負けない贅沢なものだった。
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 ピチャンに到着したのは午後9時半ごろだったけれど,中国でも最も西に位置する新疆では,この時間でもまだ太陽が地平線の上にあった。
 ちなみに,ハミで大騒ぎしていた韓国人はこのバスの中にはいなかった。トルファンに行きたがっていた彼がハミに残り,ハミに泊まるつもりだった僕たちが先に進んだようだった。彼のお陰でこの日はかなりの移動ができたので,僕としては彼がその後どうなったのか少し気になった。

 このピチャンでもまた,トシ君は本領を発揮した。夕食後,スイカが食べたいといって彼は道端で小さめのスイカを一つ買い,宿で包丁を借りてこれを切って食べ始めた。僕も一緒になって食べ始めたけれど,既に夕食を食べているのですぐにお腹が一杯になり,スイカが半分余ってしまった。
 僕なら残りを部屋に置いておき,翌朝にでも食べようとしただろう。でもトシ君,何と宿の前の屋台で食事をしていたウイグル人の一団にためらわず近付いていき,そのスイカを食べないかと勧め始めたのだ。こうなるともう,旅の技術とか何とかいう前に,性格の問題だ。僕にはとても真似できない。

 最初は怪訝そうにしていたウイグル人たちも,そのうちそのスイカを受け取り,更にトシ君に椅子を与えて輪の中に入れてしまった。初めは少し離れたところにいた僕も,近付いていったところで彼らに捉まり,結局ビールや羊肉の串焼きを振舞われることになってしまった。
 そのうち彼らは,明日この街を案内してやると言い出した。さすがに僕もトシ君もトルファンに行くつもりだったのでそう言うと,それなら明日俺たちが連れて行ってやるといって電話番号を紙に書いて渡してくれたのだった。
 その後もビールを断りきれずに何杯か乾杯し,しばらくしてからようやく宿の部屋に戻った。


 そして翌朝,彼らの一人に電話し,トルファンまで来るまで連れて行ってもらった。最後にトルファンについてからお金のことで少しもめてしまって残念だったけれど,なかなか得がたい経験ができてよかった。トシ君とウイグル人たちに感謝。そして僕たちがピシャンへ来るきっかけを作ってくれた韓国人にもやはり感謝だ。

 いよいよここからは新疆だ。敦煌までは漢人が多かったけれど,さすがにここまで来ると目鼻立ちのくっきりとしたウイグル人が増えてきて,異国に来たような印象さえ抱いてしまう。僕の中国の旅の最終段階は,西域の更に西,中央アジアの香り漂うここ新疆が舞台となる。
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by Asirope2 | 2007-06-30 12:52 | 中国

莫高窟

 鳴沙山の砂丘を見た翌日,いよいよ敦煌観光のハイライト・莫高窟(ばっこうくつ)に行った。ここは隋代から宋・元代に渡って,岩山に700を越える仏洞が開鑿された場所で,洛陽の龍門石窟や大同の雲崗石窟と並んで,中国三大石窟と並び称されている。しかし何よりもこの敦煌の莫高窟を有名にしているのは,およそ100年前に一つの窟から発見された膨大な古文書の数々だ。

 これらの文書は11世紀に莫高窟の中の一つの仏洞に保管され,その入り口は塗り込められて壁と見分けがつかなくなった。その後,ここに文書が保管されていることを知る人がいなくなってしまい,清末の1900年になって偶然発見されるまで,実に900年にわたってずっと壁の中で眠り続けていたのだった。

 敦煌文書と呼ばれるこれらの古文書は5万点を越え,漢語の文献だけではなく,チベット語,モンゴル語,西夏語,ウイグル語など様々な言語の文献を含んでいる。その大半は仏教経典で,他にマニ教やゾロアスター教,景教(ネストリウス派キリスト教)などの文献もあった。世界の考古学史上でも最大級の発見で,歴史研究に計り知れない影響を与えたという。


 もちろん僕は歴史に詳しいわけでもなく,文書そのものに対する興味というのは井上靖の小説に大きく影響されたものだ。この小説は,これらの敦煌文書が莫高窟に保管されるに至った経緯を描いたフィクションで,この小説に心奪われた僕にとって,この莫高窟は長年にわたって憧れの場所だった。
 その莫高窟を,ついにこの目で見た。


 ちなみにこの莫高窟,旅行者の間ではすこぶる評判が悪い。やたら入場料が高く,変な修復がされて各窟の入り口にはドアが取り付けられていて,雰囲気もヘッタクレもない,という話をよく聞いていた。僕の敦煌への思い入れは相当なものなので,イメージが壊れるのを恐れて行くかどうか少しためらったくらいだ。
 でも,どんなものであれ自分の目で見ておきたい。そう思ってやはり行くことにした。


 実際に見てみた石窟寺院は,しかし面白かった。この上なく面白かった。英語ガイドの分かりやすい説明も実に良かった。隋代(1500年以上も前だ)や唐代の大仏やカラフルな壁画が今も残っていたり,唐代の古い壁画の上に宋代に薄く壁が塗り足され,新たな壁画が描かれていたりと,中国の歴史の重みを感じさせる見事な石窟がいくつもあった。
 ガイドの説明では,当時は文字の読めない人が多かったので,壁画で仏教説話や極楽の絵を描き,字の読めない人にも仏教の教えを伝えていたのだという。
 また,壁画には多くの天女(中国では飛天と呼ぶ)が描かれていたけれど,これがアプサラとも呼ばれていたのも僕の興味を惹いた。アプサラはサンスクリット語,つまり古代のインドの言語だ。インドのカジュラホの彫刻もアプサラであり,カンボジアのアンコールワットのレリーフもアプサラ。そしてここ中国西域にもアプサラだ。インド文化の影響力の大きさがここでも垣間見えた。


 ここ莫高窟では,ガイドが選んだ10ほどの窟を回る仕組みになっている。そしてどのガイドも最後に行くのが,現在は17窟と番号のつけられた仏洞だ。こここそが,敦煌文書の発見された窟だ。
 小さな入り口を入ると,細い通路を通って広い本堂にいたる。その本堂には大きな仏像が立ち,周囲の壁は壁画で埋め尽くされている。この本堂に入る手前の通路の壁に穴が開いていて,その中に小さな洞があった。ここに,5万点を越える文書が隠されていたのだそうだ。高さ3メートル,幅2メートルの空間にぎっしりと巻物が詰まっていたらしい。

 これらの文書は,イギリスやフランス,日本,ロシアなどの探検隊が中国国外へ持ち出したため,現在中国にはそのごく一部しか残っていない。しかし残った経典のいくつかが,仏洞の前の小さな展示館に展示されていた。
 中に入ってみてみると,非常に保存状態がよく,文字は明瞭で紙もほとんど痛んでいない。900年も洞のなかで保管されていたとは到底信じがたいようなきれいなものだった。これだけの質の資料が5万点も出てくるというのは,本当に当時の歴史学者たちも驚嘆したことだろう。
 井上靖の小説では西夏語の文献(西夏は11世紀ごろ中国の西北に興ったタングート族の王国)が特にスポットライトを当てられており,僕としては西夏語の文献の実物も見たかったのだけれど,これは展示されていなかったのが残念だった。


 ガイドに案内されての2時間はあっという間に過ぎていった。僕にとってはとても幸せな2時間だった。特に17窟を見たときは,自分がそこにいるというだけで有頂天になるほどだった。この莫高窟では写真の撮影が禁止されていたので,内部の全然写真は取れなかったけれど,17窟の風景は僕の脳裏にしっかりと刻み込まれた。僕はこれを一生忘れることはないだろう。

 莫高窟を退場し,車に戻る途中の道で,遠くに見える岩山の仏洞の写真を一枚だけ撮った。
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by Asirope2 | 2007-06-26 17:06 | 中国

ついに,敦煌

 酒泉の郊外にはいくつもの観光ポイントがある。でも,僕はどこにも行かなかった。実は,酒泉の街の雰囲気があまり好きになれなかったというのも理由の一つだ。安宿が見つからず,結構な値段のホテルに泊まらざるを得なかったという事情もある。でもそれ以上に,もう目前に迫った敦煌に行きたくて仕方がなかった。
 はやる気持ちを抑えきれず,結局酒泉も一泊しただけで翌朝バスターミナルに行った。おかげで酒泉の名前の由来となった泉もつい見損ねてしまったのだけれど…
 これで西寧以来3日続けてのバス移動となったけれど,念願の敦煌へ行けるという嬉しさで一杯だった。

 酒泉から敦煌まではおよそ6時間。昨日に続いての砂漠の旅だ。途中,嘉峪関(かよくかん)という,万里の長城の西端の関所なども見ながら西へ進んでいく。何より嬉しかったのは,途中で瓜州(かしゅう)という街を経由したことだ。この瓜州は小さな街ではあるけれど,小説「敦煌」の中で大きな役割を与えられている街だ。街の余りの小ささゆえに,僕の持っている地図には名前すら出ていない。もうなくなってしまったのかと思っていた。


 敦煌には夕方になって到着した。小ぢんまりとした雰囲気のいい街だ。とはいえここは中国を代表する観光の街。酒泉や張掖では見かけなかった白人観光客の姿も多い。宿のフロントでははじめ中国語でやりとりしていたけれど,実は英語も通じることが途中になってわかった。
 この日は時折強い風が吹いたり雨が降ったりしていたので,あまり外には出なかった。宿の部屋で地図を眺めていると,さすがにかなり西まで来たことを実感した。


 このところずっとバス移動が続いたので,到着の翌日は休養日にしようと決めていた。ところが朝起きてみると素晴らしい青空が広がっている。急遽予定を変更して身支度を整え,市バスに乗った。行き先は鳴沙山(めいさざん)。敦煌の名所の一つであり,中国西域随一の砂丘だ。

 市内からバスで10分ほどで,鳴沙山の入り口に着いた。そこには,予想もしなかったびっくりするような光景が広がっていた。おお,何だこれは!
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 興奮しながら入場料を払って中に入ると,そこには絵に描いたような砂漠の光景が広がっていた。
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 観光客向けに駱駝で砂丘の頂上まで上がるサービスもあったけれど,僕は自分の足で歩くのが好きなので,迷わずに砂丘の山に向かって進んでいった。
 朝早いとはいえ,太陽が直接照り付けてくる。しかも足元はずっと砂場が続くので歩きにくい。でも,歩くにつれて景色が少しずつ変化して,多彩な表情を見せてくれる。もう本当に,どこを見ても砂漠,砂漠,砂漠!
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 頂上まで上がると遠くが見渡せてきれいだった。砂丘の表面には風紋がきれいに現れているところもあった。
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 ついでに駱駝の写真も一枚。
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 あまりにも暑かったので,30分そこそこで頂上から降りることにした。


 この砂丘には本当に満足した。高校生の頃だっただろうか,井上靖の「敦煌」を読んで以来,ずっと憧れ続けていた敦煌で,これだけきれいな砂丘を見たら,もう文句はない。

 この小説のクライマックス付近で,経典を戦火から守るため,主人公の趙行徳が敦煌の街から近くの石窟寺院まで経巻類を運ぶ場面がある。

“行徳は一度背後を振り返ってみた。それぞれに重そうな大小の梱包を振り分けに積んだ駱駝の隊列は、冴え返った月光の中を一列になって黙々と行進していた。行徳は駱駝の背の荷物の中身が経巻であることを思ったとき、自分の背後に続く駱駝の隊列が異様なものに思えた。六十頭の大きい生き物が、それぞれ背負えるだけの経巻を背負って月光盛んな沙漠を行進している様は、しかとその正体は判らなかったが、ある感動的なものがあった。行徳はこの夜のために、あるいは自分は長く漠地を流歴していたのではなかったかと思った。”(井上靖「敦煌」より

 思い返せば,敦煌に行きたいあまり,旅行の予定もないのにこの地域のガイドブックを買ったこともあった。そのころはまだ海外経験もほとんどなく,言葉の通じない中国の,それも得体の知れない(とそのころは思っていた)西域に,一人で飛び込む勇気はなかった。敦煌に行くなら,好きではないけれど旅行会社の団体ツアーにでも参加するしかないのかなと思っていた。
 それがいつしか海外にも慣れ,気がつくとこうして一人でアジアを放浪し,中国を横断して遂に自力で敦煌まで来てしまった。そして敦煌ではツアーには参加せず,公共の市バスに乗って鳴沙山を見に行った。いつの間にか,それを苦もなくやってしまえるだけの旅の技術と経験を身に着けていたということだ。
 笑われるかもしれないけれど,小説の中の趙行徳と同じように,あるいは僕自身この敦煌へ来るために長くアジアを放浪していたのかも知れない。そう思えるだけの満足感と充実感を確かに胸に抱きながら,僕は鳴沙山を後にした。
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by Asirope2 | 2007-06-25 14:10 | 中国

敦煌への道(2) ~ 粛州 ~

“城壁に登って南に目を遣ると、雪をかぶった祁連(きれん)山が見え、北を望むとどこまでも黄灰色の沙漠の海が拡がっていた。場内には清澄な水を湛えた大きな泉があり、その岸には樹齢何百年かを数える、夥しい数の柳の老樹が植わっていた。ここは漢の時代の酒泉の地であって、泉の水は玉を瀉(すす)ぎ、味甘くして酒の如しと言われるところであった”

“粛州は、場内こそ人の住める土地であったが、一歩城外へ出ると、平沙万里人煙を断つという言葉がそのまま当てはまる、死の沙の海の拡がりであった。”

 - 井上靖 「敦煌」より



 張掖に一泊した後,次の目的地の酒泉(しゅせん/ジョウチュエン)に移動した。ここは粛州(しゅくしゅう)とも呼ばれた場所で,上に引用したように井上靖の小説「敦煌」でもその名で登場する。この一帯は甘粛省に属しているが,甘州とは張掖のことだから,このあたりはまさに甘粛の中心地だということになる。
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 張掖から酒泉までは約250km,バスで4時間ほどの道のりだ。このバス移動は,シルクロード気分を存分に堪能できるものだった。

 張掖を出てからしばらくは,道沿いに畑が広がり,麦,トウモロコシ,野菜などが一面に栽培されているのが見えた。かつては上に引用した記述の通りだったかもしれないけれど,現代ではこのまま酒泉まで畑が続いているのかもしれない。そう思ったりもしたけれど,大きな勘違いだった。道のりの半ばを過ぎた頃,唐突に耕作地帯が途切れた。

 もともとこの辺りは砂漠地帯で,張掖に緑が多いのは,祁連山脈から流れ出る豊かな水のおかげなのだ。人々は水路を縦横に張り巡らし,広大な耕作地帯を作り上げた。その水の供給がなくなると,もう途端に砂漠になってしまうのだった。

 砂漠とは言っても,多くの日本人が想像するような砂丘ではない。乾燥して硬く固まった砂と,石の世界だ。表面はまばらな雑草に覆われている。強烈な陽光に照り付けられたこの砂漠が,北に向かってひたすら地平線まで広がっていた。
 空は突き抜けるような青色で,真っ白な雲が浮かんでいる。随所で砂が大きなつむじ風に巻き上げられ,砂の柱が何本も立っているのが見える。ときどき水が流れた痕跡のような溝があったけれど,今は完全に干上がっていた。
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 南に目を向けると,同じように広がる砂漠の向こうに祁連山脈の峨々たる山々がどこまでも続いていて,その頂は雪で覆われている。大した距離ではないのに,こちらは砂漠であちらは雪。それだけ山が急峻ということなのか,あるいは砂漠の環境が苛酷なのか。

 この光景の中を,バスは延々と走り続けた。バスの周りに見えるのは,この砂漠と山と空だけ。それ以外に何もない。ひたすら広い砂漠と,ひたすら高い山だけが,空の下にあった。時折大型トラックや他のバスとすれ違ったり,遠くの線路を貨物列車が走るのが見える以外に,人の生活の痕跡はない。まさに冒頭の引用文に描写されたとおりの景色だった。かつてはここを通って,駱駝を引いた隊商や,馬にまたがった兵士たちが往来したのだろうか。
 空気が極度に乾燥しているので,すぐに唇の表面がカサカサに乾いてくる。ペットボトルの水があっという間に減っていった。

 時折,木々が茂っている場所があった。そういう場所には必ず小さな集落があり,トウモロコシや麦,葡萄などの作物が植えられていた。バスがそういう集落に入ると,それまで砂漠の中を走っていたのが嘘のように感じた。
 でもここでもやはり,集落の端で水の供給が断たれた途端にまた砂漠に戻る。そうなると今度は,さっきまで畑があったのが嘘だったような気になってくる。まさしくこれがオアシスというものなのだろう。まるで一時の幻のように,いくつかのオアシスが目の前に現れては後ろへ消えていった。


 そのうちに,規模の大きな森林地帯が見えてきた。これが,酒泉の端だった。しばらく進むと次第に民家や商店が現れ,そうかと思ううちにあっという間に普通の街に変わっていった。やがてバスは酒泉のバスターミナルに到着した。
 酒泉の街の周囲の風景は,これまで経験してきた中国の地方都市と何一つ変わらないように見えた。「敦煌」の舞台となった時代とは異なり,今ではこの街に城壁は存在しないけれど,街の中にいる限り,ここはやはり「人間の住める場所」なのだった。
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by Asirope2 | 2007-06-24 20:32 | 中国

敦煌への道(1) ~ 甘州 ~

 西寧は街の表情の多彩さといい,食べ物のおいしさといい,宿の居心地のよさといい,申し分のないところだった。僕が西寧に着いたのと同じ日に,日本人旅行者のHさんという人が同じドミトリー(大部屋)にやってきて,意気投合したというのも大きかった。青海湖へも一緒に一緒に行ったし,タール寺や日々の食事まで,ほとんどずっと一緒にどこへでも行っていた。
 そのHさんは,青海湖から戻った翌日の夜に,チベットのラサへ行くために旅立っていた。長旅をしていると,仲良くなった人と別れるというのはこの上なく寂しいものだ。Hさんの出発に追い立てられるように,僕も次の日の早朝に西寧を発った。行き先は張掖(ちょうえき/チャンイエ),かつて“甘州(かんしゅう)”と呼ばれた,西域のオアシス都市だ。

 僕は今回の中国の旅を,小説「敦煌」を追う旅にしようと思っていた。ところが,小説の最初の出発点である開封には行かず,西安の次は西寧に移動するなど,コースを外れっぱなしだった(西寧はシルクロードのメインルートから南に分岐したところにあり,南方のチベットへの玄関口となっている)。だから張掖へ行くということは,僕にとってはようやくシルクロードの旅を本格的に始めることを意味しているのだ。


 井上靖の小説「敦煌」では甘州という街は実に印象的な場だ。主人公の趙行徳が西夏軍の前衛部隊の一員としてこの甘州に入り,そこでウイグル族の王族の娘と出会う。この甘州は趙行徳とこの王族の娘のロマンスの場となったと同時に,この王族の娘が短い生涯を閉じた場所でもある。彼女の死をきっかけに行徳は仏教に傾倒していくのだけれど,それが物語全体の大きな伏線にもなっている。


 西寧から張掖までは,祁連(きれん)山脈の山あいを縫うようにして走るバスに乗る。この景色は非常に美しかった。
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 長途8時間,とは言っても広い中国では当り前でもう慣れたけれど,夕方4時頃にバスは張掖に着いた。西寧がずっと雨がちの天気だったので,張掖の青く抜けた空と陽光に輝く樹々の緑がまぶしかった。
 街に着くと,漢人が多いことに驚いた。しばらく西寧で漢人以外の民族が多い状態に慣れていたので,かなり雰囲気が違って見えた。街にはモスクもあったようだけれど,あの白いイスラム帽をかぶった人達は全然見かけない。街の食堂の看板にも“清真”の文字がない。外見上は,中国の平原部の地方都市と全く変わらない。


 街の中央には大きな鐘楼があったけれど,それ以外に過去をしのぶような風景は張掖にはあまりない。でも雰囲気はなかなかいい街で,到着してからしばらく街を歩き回った。
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 驚いたのは陽がなかなか沈まないことだった。ここ中国では,全土で同じ北京時間が採用されている。中国は東西に広く,おかげで西へ行くと朝は陽がなかなか昇らず,夜は陽が沈まないことになる。
 とはいっても,ここ張掖は西寧から見ればほとんど真北にあたる。西寧では夜9時前まで明るいなと思っていたくらいだったのが,ここ張掖では午後8時を過ぎてもまだ“夕日”が射しているのだ。西寧の西に青蔵高原があったからか,張掖では緯度が上がって昼が長くなったのかは分からないけれど,いつまでも明るい張掖の“夜”には戸惑ってしまった。


 小説「敦煌」では,ウイグルの王族の娘の死後,趙行徳が甘州の城壁に登って彼女の死を悼む場面が出てくる。でも残念ながら今は張掖に城壁はない。今の張掖に小説そのままの街を期待していたわけではないけれど,かといって余りにも見るものがないのも事実なので,張掖には一泊しただけで次の街に向かうことにした。
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by Asirope2 | 2007-06-24 20:25 | 中国

西寧の風景

 青海湖から戻ってきて,また西寧に泊まっている。この街はまだまだ一昔前の中国が残っていて,歩き回っていると面白い。
 街の大通り自体は,割と近代的になってきてはいる。
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 でも,ちょっと小さな通りに入るとバザールが広がっていたりする。野菜に肉に魚に,中国の食の豊かさを実感できる場所でもある。
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 バザールの一画で,緑豆を石臼で挽いて売っているのを見つけた。客がいなくなると,豆売りの兄ちゃんは将棋に夢中になっていた。ここに限らず,中国では将棋を指している光景をよく見かける。
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 スイカの向こう側に山積みになっているのはハミ瓜。薄味のメロンのような感じ。かなり大きくて,一個150円くらい。
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 中国でも少なくなってきた屋台が,ここ西寧にはまだ残っていた。でもどこにでもあるわけではなく,数はやはり少ない。ここでもそのうち,なくなってしまうのだろうか。
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 この街にはムスリム(イスラム教徒)が多い。イスラムでは,食肉は戒律に従って処理されたものしか食べることはできない。そのため,ムスリムの肉屋も多い。明らかに漢人とは異なる顔つきの人達が店番をしていた。
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 ここ西寧ではどういうわけか美味しい食堂が多い。適当に入ってもはずれた例がない。宿の近くの肉まん屋で食べた肉まんは,今までで一番おいしかった。皮は薄めでパサつかず粘りがあり,あんは肉汁がこぼれそうなほど。あっという間に僕の西寧での朝ごはんの定番になった。
 やはり宿の近くにある別の食堂でも何を注文してもはずれがなく,その二軒となりの麺屋の牛肉麺(ニューローメンと読む;ラーメンのこと)も,コシのある麺と牛骨ダシの効いたスープは,今まで中国で食べた中では一番だった。
 街を歩いていても食堂はあちこちにあり(これは中国ではどこでもだけど),その看板を見ているだけでも楽しい。どんな街にでもあるのが四川料理屋。“川菜”とあれば四川料理のことだ。青海湖畔の小さな街にもあった。
 西寧の街ではこんな看板を見つけた。牛に羊に魚がいっぱいで,それでも飽き足らずに絵まで描いている。わかりやすいことこの上ない。中に入って食べたことはないので味の方はよく分からないけど。
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 ちなみに“清真”というのはここがイスラム食堂だということだ。この街では食堂の大半は清真食堂だ。

 食べ物がおいしいというのは街の印象を決める重要な要素で,その点西寧は実に素晴らしい。ゆっくり長居しようよと囁く心の声に惑わされつつ,それでも明日出発することに決め,バスの切符を買いに行った。
 中国は余りにも大きい。中国に入ってから既に3週間以上経ったのに,まだ半分だ。先へ進まなければ。
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by Asirope2 | 2007-06-21 18:40 | 中国