カテゴリ:インド( 16 )

総集編(3)~ インド

 インドは,人間の素晴らしさと醜さ,富と貧困,生と死,秩序と混沌,あらゆるものが全て存在する場所だ。去年訪れたときには全く好きになれなかったこの国の面白さが,今年になってようやく見えてきた。

 デリーのメインバザールは,数多くの旅行者が集まる世界有数の安宿街でもある。
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 デリーの次に訪れたジャイプールでインドを少し見直し始めた僕は,その次のジョードプルの街で完全にインドの面白さの虜になってしまった。
 街を見下ろす高台には,壮麗なメヘラーンガルの砦がずっしりと構えている。
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 そしてその周囲には,“ブルーシティ”と呼ばれる美しい街並が広がる。
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 市街に出ると,人々は素朴で温かかった。そして,幼い子供の純粋な目。
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 ジョードプルから更に西へ進むと,パキスタンとの国境付近にジャイサルメールという小さな街がある。ここにも,街の中心に立派な砦がある。日が沈む頃,街外れの高台から街を眺めると,“ゴールデンシティ”の異名のとおり,街が金色に輝くのが見える。
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 ジョードプルから少し離れたところに,クーリーという小さな村がある。
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 静かなクーリー村で,僕はインドの貧困と差別の問題にぶち当たった。

 このころからインドは酷暑期に入り,気温は連日40℃を越えた。その暑さの中,ミトゥナ像で有名なカジュラホへ移動。生命感のほとばしり出るような彫刻群に圧倒された。
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 カジュラホの次に向かったのは,インドの旅の最終目的地・ゴア。たまたまマレーシアのマラッカで見た聖ポール教会の石碑が,僕をここへ連れてきた。
 海のシルクロードの拠点であり,インドの植民地としての歴史も象徴するゴアには,フランシスコ・ザビエルの遺体が今もミイラとして遺されているボム・ジェズ教会がある。
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 この教会に3日間通いつめ,自分の旅に思いをめぐらせた。





【インド旅行情報】

 恐いというイメージのあるインドだけれど,英語が通じること,交通網が全土で整備されていること,安宿が多いことから,意外と旅のしやすい国。そして何より,懐の深いインド人たちは僕たち外国人をすぐに受け入れてくれる。
 大都市や有名観光地の街なかで向こうから話し掛けてくるインド人は絶対に相手にしないこと。それさえ守れば,インドの奥深い文化が圧倒的な圧力で迫ってくる。

・宿
 どんな街にも安宿がある。そしてありがたいことに,中級宿もたいていの街にあるので,疲れが溜まったときには逃げ込んで,体力の回復を図ることができる。気候・食事・衛生環境など,インドは日本と大きく異なるので,疲れたときは無理をしないことが大切。

・食事
 何といってもカレーの国。インドカレー好きにはたまらない。安い定食は60円くらいから。ただし肉類を食べると高くなる。街角のチャイ屋も忘れちゃいけない。観光客向けのゲストハウスに行けば,サンドイッチやパスタも(味はともかくとして)食べられる。

・移動
 広い国土をくまなくカバーする鉄道網と,どんな小さな街にも行けるバス網。意思と体力さえあれば,どこにでも移動できる。特急列車のエアコン車両は非常に快適。鉄道の2等車両やバスはぎゅうぎゅう詰め。

・言葉
 英語が全土的に通じる。並みの日本人には聞き取れないような早口の英語を話す人も多い。訛りのないきれいな英語を話す人から,強烈なインド訛りの人まで色々いる。

・宗教
 ヒンドゥー教,イスラム教,ジャイナ教,シーク教,仏教,キリスト教・・・ インドに行くなら,ヒンドゥー教・イスラム教・仏教については一通り勉強していった方がいいと思う。

・通信
 インターネットカフェはたいていの街にある。ウイルス感染したPCが多いので気を付けて。

・備考
 ビザは日本で取っていくのが楽!


 インドの旅の全記事はこちら。
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by Asirope2 | 2007-09-17 12:58 | インド

さよならインド

 窓の外に広がるデリーの街はみるみる遠ざかっていき,やがてひどく霞んだ空気の中に溶けるように消えていった。エア・インディアの飛行機の中からそれを眺める僕はといえば,2時間も遅れたフライトにいい加減待ちくたびれてしまい,あまり感慨などはなかった。無我夢中で過ごしたインドを離れるのだからもう少し感傷的になるかと思っていたけれど,最後までインドはインドらしく僕を送り出してくれたのだった。

 とはいっても,やはりインドでの40日間は僕にとって大きな山だった。訪れたそれぞれの街で予定より長く滞在するということが続いたため,結局当初の計画の半分ほどの街へ行っただけで終わってしまい,インドの旅としてはごく平凡なものとなってしまった。
 ただし旅のコースは平凡でも,旅をする全ての人間に必ず非日常的かつ個人的な体験を与えてくれるのがインドだ。例に漏れず,僕にとっても今回のインドはいろいろと考えることが多く,自分の中ですぐには解決できなかった宿題をたくさんもらった。これらの宿題は今後の旅のあちこちで,物事を広い視野で考えるきっかけを与えてくれるだろう。

 また,インド自体に対する僕の感情にも大きな変化があった。インドに行くとインド人の嫌な面を見ることも(非常に)多いけれど,しかし今回はそれだけではなく心から素晴らしいと思えるインド人にも何人も出会った。未だにインド全般に対しては肯定的な評価と否定的な評価の双方が僕の中に混在しているけれど,去年のインド訪問ではほとんど否定的な印象しか持てなかったので,これは僕にとっては前進だ。
 飛行機の中で,自分がインドで訪れたそれぞれの街を思い出しつつ,いつかまたここへ来てしまうんだろうな,とぼんやり考えていた。


 ちなみに経済成長が著しいといわれるインドだけれど,今のインド社会が相当な速さで変化しているというのは,僕にも実感できた。大都市では大きな建築工事が随所で行われているし,中流階級以上の人々は携帯電話を一人で2台持っていることも少なくない。電車やバスに乗ると常に誰かの携帯が着信メロディーを鳴らしている。
 そして何よりも両替レートの変化の早さに,僕はインドの経済成長の速さを実感した。去年来たときは1ドル=44.5ルピーくらいだったのが今回僕がインドに着いたときには42.5ルピーになっており,そして僕がインドを去るときには40.5ルピーにまでルピー高が進行していた。驚くべき速さだ。

 もちろん一方では今も物乞いや,その背後にあるカースト差別が厳然として存在する。貧富の差はむしろ拡大しているだろう。カースト制度はヒンドゥー教と強く結びついているのだけれど,インド人の信心深さは日本人の僕たちには想像もつかないほどなので,国が豊かになったからといって簡単に解決するほど単純な問題でもないような気がする。今後インドがどのようにこれら諸問題に取り組んでいき,どのような国になっていくのか,僕にはちょっと見当がつかない。



 4時間ほどのフライトの後,飛行機は無事にタイのバンコクに到着した。空港に降り立ったときの匂いの懐かしいこと!
 気候風土,人種,国民性,街並,宗教,食べ物など,全てが日本と異なるインドに比べて,タイは日本との親近性が非常に強い。何よりも違うのは,インドはゴアなど一部を除いて砂の風土の国だということだ。それに対し,日本やタイなどは土の風土の国だ。そもそも「風土」という言葉自体が「土」という字を含んでいるくらいなのだから。
 土の国で育った人間にとって,砂の国で過ごすことは心身ともにかなりの負担を感じる。特に僕のような田舎育ちの人間ならなおさらだ。久しぶりにタイに戻った僕は,肌にしっくりと馴染むタイの空気に喜びと落ち着きを感じていた。もはや僕には外国に来たという感覚はなく,自分本来の領域に戻ってきたという安堵感があった。


 この時期にバンコクに来たのには理由がある。会社勤めをしていたころの友人たちがGWを利用してバンコクに来るというので,彼らに会うため時期を合わせて帰ってきたのだ。バンコクに到着した夜,彼らと久しぶりに再会してタイのローカル食堂に夕食を食べに行った。インドにいるときは日本食が食べたくて仕方なかったのに,久しぶりに食べたタイ料理のあまりのおいしさにノックアウトされた。インドのカレーもとてもおいしかったけど,久しぶりのタイ料理は,タイの景色や風土とともに,僕にとっては日本料理とオーバーラップするほど輝いていたのだった。
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by Asirope2 | 2007-05-01 14:20 | インド

灼熱デリー

 オールドゴアには結局3日間通いつめた。ボム・ジェズ教会を訪れては礼拝堂の椅子に腰掛け,自分の旅に思いを巡らせていた。キリスト教徒の方々には申し訳ないけれど,静かで落ち着いた礼拝堂は考え事をするには一番の場所だった。その後ビーチ沿いの場所に宿を移し,2日ほど過ごしたあとボンベイに戻った。

 ゴアに行く列車の切符を予約するとき,ゴアからボンベイ,そしてボンベイからデリーに戻る切符もついでに買っていた。このとき帰路のボンベイでは丸一日過ごすスケジュールを組んでいた。これは列車に大きな遅れや運休などがあった場合の予備日だったと同時に,せっかくなのでボンベイを一日観光しようと思ったからだった。
 ところが,ボンベイに戻ってから体調を崩してしまって観光はできずじまい。海沿いで蒸し暑いボンベイで,一日中ホテルにこもりっぱなしだった。その翌日,結局ボンベイで何もしないままデリー行きの夜行列車に乗った。

 デリーに戻ってみると,先月僕がインドに来た当初とは大きく違って非常に暑くなっていた。3週間前に一度戻ってきたときもだいぶ暑くなってはいたけれど,それでもまだ日中動き回れた。今はもうとてもそんな気になれない。ボンベイの蒸し暑さとは全く違って,ラジャスタンやカジュラホで経験したような極度に乾燥した焼けるような暑さだ。ただ,気温は40℃くらいまで上がっているだろうけど,僕は蒸し暑いより乾燥した暑さのほうがまだましに思える。


 デリーでは色々と大きなトラブルに遭う人が多く,デリーを強く敬遠する旅行者も多い。でも僕はデリーで特に大きなトラブルに遭ったことがないので,デリーに戻ってくるとほっとした気持ちになった。新しい街に行くというのはエネルギーがいるし,殊にそれがインドでは尚更だ。しばらく新しい場所が続いたのでさすがに疲れていた。馴染みの宿にチェックインしてシャワーを浴びると一眠りした。

 インドにそれなりに長く滞在して改めてデリーに戻ってみると,今までと少し見え方が違ってきたことに気付いた。安宿の集まっているパハールガンジの細い道は,相変わらず大勢の人と車とリクシャーが行き交っていて騒々しい。空気には排ガスと埃と牛の糞のにおいが充満している。
 でも,今まで一月ちょっとの間インドを旅して,インド人の中にたくさんのいい人たちがいることがわかってきた。彼らの「いい人」ぶりは半端ではない。カジュラホで泊まった宿のオーナーなどは,従業員から「あの人は俺の神様だ」とまで言われているくらいの人格者だった。他にも,行く先々の宿で,街中で,列車の中で,いろんなインド人と接するうちに,かれらの多くが強烈な人間臭さをもった好人物であることを知った。
 もちろん悪いやつもたくさんいる。特にデリーの街を歩いていると悪企みしていそうな連中が声を掛けてくることも多々ある。以前はそのたびにインドに対する不快感がこみ上げていたけれど,今では,そうやって声を掛けてくる連中以外のインド人に目が行くようになった。彼らはきっといい人なんじゃないか。

 折しも日本はゴールデンウィークに入る。インドにやってくる日本人も多いだろう。短期間の旅だとどうしてもデリー周辺の大きな観光地だけを回ることになりがちで,そういう場所にはロクでもないインド人が非常に多いため,不愉快な思いをする日本人も多いはずだ。それがインドの一つの顔であることは確かなのだけれど,それだけがインドでもないんだよ,と今の僕は思うのだ。
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by Asirope2 | 2007-04-28 14:35 | インド

ゴアにて

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 パナジはゴアの州都ではあるけれどそれほど大きな街ではない。観光客も大半がここから離れたビーチに滞在するため,パナジにはあまり多くはいない。
 ゴアはポルトガルの植民地としての歴史を持つため,西洋風の街並みの中にいくつもキリスト教会があり,明らかに他のインドの街とは違う雰囲気に包まれている。
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 人々はおだやかで,街のゴミは少なく,牛もいない。他のインド諸州とは違って酒類が安く,街にたくさんあるバーでは昼間からインド人がビールを飲む姿も珍しくない。僕たち日本人の感覚から言って普通の街だという印象で,何だか自分がインドにいるような気がしない。
 ジャイサルメールにいたときも自分がインドにいるような気がしなかった。でもジャイサルメールの場合は目にする全てがインド的なのにインドにいる気がしなかったのに対して,ここゴアでは目にする多くのものがインド的でないことによる違和感だという点が大きな違いだ。

 また,南インドのゴアではカレーの味も北インドとは明らかに違う。南のカレーの方がスパイスの香りが華やかでおいしい。更にゴアは海に面しているため新鮮な魚介類が食べられる。このあたりで食べられるフィッシュカレーのおいしさはちょっと言葉では言い表せない。香りのいいスパイスで煮込まれた新鮮な魚は絶品だ。暑いゴアでよく冷えたビールとおいしいフィッシュカレー,もうたまらない。


 このパナジからバスで10分くらいのところに,オールドゴアと呼ばれる街がある。ここは,かつて大航海時代にポルトガルによる植民地支配の中心となったところだ。ここにボム・ジェズ教会というキリスト教の教会がある。
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 年代を感じさせる重厚なたたずまいの教会は今も現役で,誰でも入ることができる。内部の礼拝堂は美しく,観光ガイドの活動が禁止されているため静かで荘厳な雰囲気だった。インド人・外国人ともに観光客は多いけれど,その観光客に混じって熱心に祈りを捧げているインド人も多かった。
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 実はボム・ジェズ教会は,日本に初めてキリスト教を伝えたイエズス会宣教師フランシスコ・ザビエルと縁が深い場所だ。ザビエルはマレーシアのマラッカでその生涯を閉じ,一度マラッカで埋葬された後にその遺体がここゴアに運ばれ,この教会に安置された。そして,彼の遺体は今もここの教会にある。彼の遺体は今はミイラとなってガラス窓のついた棺に納められ,礼拝堂の脇に今も安置されているのだ。
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 棺が少し高くて離れた位置に置かれているため細かいところまでは見えないけれど,彼の横顔ははっきりとわかった。ザビエルといえば日本人で知らない人はいないだろうというくらい有名な歴史上の人物だけれど,その彼が今ミイラとなってここゴアで眠っていることを知っている人はかなり少ないだろう。


 ゴアは大航海時代が始まるはるか以前から,海の貿易の中継地点として重要な場所だった。ヨーロッパから地中海を経由して紅海やアラビア海に出た交易路は,アラビア海を渡ってインドに達し,その沿岸部を経由してベンガル湾からさらにマラッカ海峡を越えたあと,インドシナを経て最後は中国の広州に至る。このルートは「海のシルクロード」と呼ばれ,ゴアはその中継地点の一つだった。

 海のシルクロードの歴史は古く,実に1世紀頃にはルートが確立されていたという。ここを様々な国の商人が行き交い,絹や香辛料,陶磁器や宝石など,さまざまな品物を運んだ。そして人の往来に伴って,宗教や学問,当時の最先端技術など,文化そのものもこの道を通って各地に伝わった。

 時代は下って約500年前,ヨーロッパでルターらによる宗教改革が起こった。それに対してローマ・カトリックの側から反宗教改革が起こり,カトリック勢力の維持・拡大の急先鋒としてイエズス会が組織された。時あたかも大航海時代が本格的に幕を開け,イエズス会の一員であるザビエルは,時代の流れに乗って祖国を遠く離れたアジアの国々で布教活動を行った。そして日本・マレーシア・インドなど,各地にその足跡を残したのだった。

 ちなみにこんなことを書いていると僕が根っからの世界史マニアだと思われるかもしれないけれど,何を隠そう,センター試験の世界史で正解がさっぱりわからず,鉛筆を転がして答えを選んでいた程度だ。


 ボム・ジェズ教会でザビエルの遺体を目にしている僕の脳裏に,マラッカの景色がはっきりと浮かんできた。マレーシアのマラッカで,僕はセントポール教会跡という場所に行った。そこはザビエルが最初に埋葬された場所で,教会跡の石碑には,彼が一度ここで埋葬された後にゴアへ運ばれたと書かれていた。これが,僕がゴアに来るきっかけになった。

 そのマラッカはゴアとともに海のシルクロードの重要な中継地点であり,ともに大航海時代にその重要性を増し,ともにポルトガルの植民地となった。ともに長い歴史を持ち,世界史上重要ないくつものキーワードを共有するこの2つの街が,それぞれの街の雰囲気や道行く人々の表情,空気や土の匂いなどの記憶とともに僕の頭の中で強く関連付けられていった。

 そして,同じキーワードでこの2つの街に連なる街が更にもう一つ思い浮かんできた。マカオだ。マカオもまた海のシルクロードの中国側の終着点として長い歴史を持ち,ゴアとマラッカに続いてポルトガルの植民地となった経緯を持つ。

 マカオとマラッカとゴア,この3つの街を頭に思い浮かべたときに,僕には海のシルクロードの全体像がはっきりと見えてきた。中国からヨーロッパまでの総行程のうち,僕は約半分の地点まで来たことになる。ここまで来れば,およそ1万kmに及ぶであろうそのルート全体の距離感が漠然とつかめてくる。

 理解できたのは距離感だけではない。今まで見てきたアジア諸国の文化についても関連が実感としてつかめてきた。南伝仏教と呼ばれるタイやラオスの上座部仏教,インドネシアやマレー半島でいまも信仰されているイスラム教,アンコール遺跡に痕跡の残るインドシナのヒンドゥー教なども,まさにこの海のシルクロードを通って伝わっていったのだ。自分の視野が一気に広がるとともに,自分が今まで見た色々なものが頭の中で有機的に関連付けられていくのを感じた。

 個人的な趣味で恐縮だけれど,僕は文化の伝播というものに強い興味を持っている。ある社会の文化は他の社会へ伝わり,相互に影響を及ぼしあいながら更に新しい文化を生み出す。異なる社会の間で共通の文化が共有されると同時に,文化の多様性も展開される。そのプロセスこそが文化というものだ。ここゴアに来て,遠く離れた東南アジアを含むアジア地域の文化の多様性の源泉の一つにじかに触れた気がした。


 僕はボム・ジェズ教会の礼拝堂の後ろのほうにある長椅子に座って,さらに考え続けた。

 物事を自分の目で見て,自分の五感で感じ,自分の頭で考えるということはとても大切なことだ。僕が上に書いたようなことは,世界史の教科書を開けば書いてあることばかりだ。そして,旅に出る前に僕は教科書を開いていたので,これらのことは知識として頭の中にあった。でも,実際にそれぞれの事柄の舞台となった場所に来てみると,単なる「知識」が実感を伴う「理解」に変化する。
 ただし,漫然とその場にいるだけでは単にその街に来たというだけで終わってしまう。自分の感性をフル回転させて,自分自身で様々なことを感じ取らなければ意味がない。そこで何を感じるかは人それぞれでいい。それが個性というものだ。他人と同じことを感じなければならない必要性などない。

 自分で行き先を決めて自分で交通手段を確保し,例えばインドであればインド人にもみくちゃにされながら目的地にたどり着く。その目的地で新しいことをたくさん発見する。その過程で多くの人と関わりを持つ。それら全てのプロセスで,僕は常に何かを感じようとする。そして,自分が見たもの,聞いたもの,嗅いだもの,触れたもの,食べたものから感じ取った全てのことについて,今度は頭を使って考えてみる。なぜこれはこうなのか。なぜこういうものがここにあるのか。なぜこの人達はこんなことをしているのか。
 もちろんそれで全てが分かるはずがない。でも,とにかく考えてみる。そこで納得して分かったことは自分の意識の中に織り込まれる。じゃあ分からなかったことは捨て去られるのか。僕はそうは思わない。分からなかったことは,自分の無意識の領域に放り込まれると僕は思っている。

 そうやって無意識の世界にいくつも分からないことが溜まっていき,あるとき,あることをきっかけに分からなかったことが急に分かるようになることがある。これが大事だと僕は思う。
 言ってみれば,自分の無意識の領域に種を蒔いておくのだ。いつかそれが芽を出すこともあるかもしれない。時にはそれが5年後,10年後になるかもしれないし,遂には芽を出さないままのこともあるかもしれない。でも,種を蒔いておかなければ絶対に芽が出ることはない。また,ある種が芽を出すためには別の種が必要な場合もあるだろう。だから,とにかく色々感じて考えるようにする。今回の僕の場合は,東南アジアの旅で無意識の領域に蓄積したたくさんの種が,ゴアに来たのをきっかけにいっせいに芽を吹いた。


 今回,マレーシアのマラッカやインドのゴアを訪れることは旅の最初の段階では予定していなかった。だから初めから意図していたわけではないけれど,気がついてみると今までの旅は海のシルクロードというキーワードがテーマになっていた。
 そしてインドの旅が終わったら,僕は少し寄り道をしたあと,マカオから中国の旅に入っていくつもりだ。一気に中国を横断し,西の新疆地区から中央アジアのキルギス・ウズベキスタンに抜ける。そのルートは,今度は陸のシルクロードだ。僕にはここで初めて,陸海あわせたシルクロードという,自分の旅の全体像が見えてきた。自分の旅のテーマにあとから気付くのもおかしいと言われるかもしれないけれど,実際そうなのだから仕方ない。

 僕が旅をする中で最も恐れていることは,旅が惰性に陥ることだ。長い期間の中で自分の旅に疲れてしまい,自分の旅を持て余す。その結果,次第に好奇心を失ってただひたすら次の国に移動することだけが目的になり,旅が散漫になる。こういうことだけは絶対に避けたいと思っている。去年5ヶ月間旅をした後に,一度日本に戻って心身をリフレッシュさせた理由もここにある。
 僕にとってインドというのは,慣れてきたとはいえ未だに苦手意識の抜けない国だ。そのインドに悪戦苦闘しながらも何とか一ヶ月間滞在してゴアにたどり着いた。そしてそのゴアで自分の旅の全体像がつかめて旅にまとまりができたというのは,僕にとって幸運であり,大きな収穫だった。

 インドに来てよかった。
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by Asirope2 | 2007-04-22 22:56 | インド

南へ!

 北インドのカジュラホから南インドのゴアへの移動は,インドの大きさを僕に実感させるのに十分なものだった。カジュラホには鉄道が通っていないため,まずはバスで近くのサトナという街まで移動する。朝6時半のバスに乗って3時間半ほどでサトナに到着し,鉄道駅で列車を待つ。ここからゴアまで直行する列車は予約が取れなかったため,まずは中継地のムンバイ(旧称ボンベイ)までの切符を買っていた。ムンバイまで行けばゴアへは何かしらの移動手段があるだろうということだった。

 予定ではムンバイ行き列車は12時半に来るはずだったけれど,駅に着いてみると1時間遅れの午後1時半到着となっていた。ひたすら暇な時間を駅で過ごす。電車を待ちながら暑い駅のホームで昼ごはんのサモサをつまんでいると,目の前の線路上を野良牛が悠々と歩いていた。自分がインドにいることを実感する。
 そうこうするうちに実際に列車が来たのは午後2時半。予定より2時間遅れだけれど,インドではまだましな方だろう。
 
 列車に乗り込んでしまえばあとは楽ちんだ。エアコンつきの寝台を選んだので快適なことこの上ない。長距離移動でお金を始末し過ぎるとあとで体にこたえるのだ。カジュラホではエアコンのない部屋に泊まっていたので毎晩暑くて寝苦しく,しかも朝は早くから寺院を観に行くという毎日だったので,かなり疲れが溜まっていたらしい。列車の中ではじきに寝てしまった。夕方に目を覚ましたけど,食べ物を少しお腹に入れるとまた寝てしまい,そのまま朝まで眠りっぱなしだった。

 翌朝,目が覚めても列車はずっと走り続けた。野菜コロッケと食パンがセットになった車内販売の朝食を食べ,チャイを飲むとすっきりと目が覚めてきた。列車の到着予定は午前11時半だったけれど,僕が乗った時点で2時間遅れていたので,もう少し遅くなるはずだ。カレンダーを眺めつつこれから先の予定を頭の中で組み立てたりして暇な時間を過ごす。
 昼を過ぎて午後1時半頃に,ようやく列車はムンバイに到着した。列車だけでも23時間だ。バスと待ち時間をあわせると実に31時間の移動だった。

 今回の移動の最終目的地はここからさらに南のゴアだけれど,長距離移動の後なのでさすがにムンバイで一泊することにして駅前のホテルを探しに行った。宿代の高いムンバイでは,数少ない安宿はもう一杯だった。仕方ないので一泊三千円ほどのエアコン付の“立派な”ホテルにチェックインした。

 シャワーを浴びてさっぱりするとすぐにゴア行きの切符を買いに駅へ行った。
 駅の切符予約センターに行くと,テレビモニターに列車の空席情報が表示されていた。目当ての列車を確かめてみると,なんと一番高いクラスでも1週間先までキャンセル待ちになっていた。これはまずい。今はオンシーズンだからゴア行きは混むと話には聞いていたけれど,こんなには待てない。キャンセル待ちで果たしていつの切符が取れるだろうか。バスで行こうかとも思ったけれど,そのバスだってこの調子だと混んでいそうだ。どうやってゴアに行こうか。

 実はゴアは,単に今回の移動の目的地であるだけでなく,僕の今回のインドの旅の最終目的地でもあるのだ。インド滞在期間はまだあと10日ほど残っているけれど,何といってもインドは大きい。ゴアからムンバイを経由してデリーに戻るだけでも3日掛かってしまうほどだ。何日も電車を待つ余裕は全くない。かといって,行き先を変えたくもなかった。ゴアでインドの旅を終えるというのは,僕にとって絶対に譲ることのできない一点だった。
 ここでボーっと考えていても仕方ないので,とりあえず外国人専用の予約窓口に行ってみた。

 インドに来て自分で鉄道の切符を買ったことのある人ならみんな知っていることだけど,インドの主要駅の切符売り場に集まる人の数はなかなかすごいものがある。デリーやムンバイなどの大きな駅になると,よほど慣れた旅行者でないと,その数に圧倒されてひるんでしまうだろう。それ以外の駅でも長蛇の列ができていることが多く,係官の仕事が遅いとひどく待たされることになる。

 しかしありがたいことに,今ではインドの大きな鉄道駅には外国人専用の窓口が設けられていて,僕たち旅行者はそこでかなりスムーズに切符を手配することができる。しかも外国人用に特別に座席枠を持っていることがあり,一般向けが満席でもチケットが取れてしまうことがあるという。僕が望みを託したのもこれだった。

 この窓口のおじさんはとても親切な人で,僕が乗ろうとしていた夜行列車ではなく,日中の列車だったら翌日の便にも空きがあることを教えてくれた。ついでにゴアから戻る列車の切符も手配を済ませて,無事ゴア行きの手段を確保することができた。
 ゴアは僕の今回の旅の中で非常に重要な意味を持っている。そのゴアにこれで行ける。そのことが素直に嬉しかった。

 ムンバイからゴアへ行く列車は朝7時前の出発だったので,翌朝も早起きして駅へ向かった。列車はすでに到着していて,僕が乗り込んでしばらくしてから定刻に出発した。
 この列車,ここからが本当に長かった。ゴア最寄り駅の到着予定時刻は午後6時半,実に12時間だ。長距離移動でも夜行列車なら寝ていれば着くので楽だけれど,日中をまるまる費やしての移動はとにかく暇だ。夜行列車から先に予約が埋まっていく理由がよく分かった。車内では日本から持ってきていた世界史の教科書を読み始めたけれど,そのうちに疲れてしまい,あとは窓の外をずっと眺めていた。

 なかなか過ぎていかない暇な時間に耐えに耐え,ようやく日が沈む頃に列車は目的地の駅に到着した。
 ゴアというのは現在ではインドの一つの州の名前であり,ゴアという街があるわけではない。州都であるパナジの街を中心にして,その周囲に多くのビーチが点在している。大半の旅行者はビーチに滞在するのが目的でここゴアにやってくるけれど,僕はむしろこの街の歴史の方に興味がある。だから駅からはビーチに向かわず,パナジを目指した。さすがに疲れていたのでバスではなくリクシャーに乗った。

 リクシャーから見た周囲の風景は,インドというには非常に違和感のあるものだった。駅は街からかなり離れた田舎の方にあったのだけれど,その辺りの小さな家々ですらどこか整ったたたずまいで,非常に落ち着いた雰囲気を持っていた。
 また,普通インドといえばどこでも,都会か田舎かを問わず道端には必ず大量のごみが捨てられているものなのに,ここにはそのごみがほとんどない。ここは本当にインドか?
 空気の湿度が高いのも今まで僕が訪れたインドの街とは異なるものだった。これら全てのことが,ふと僕にマレーシアの田舎町を思い起こさせた。そういえば空気の匂いも,少し似ているような気がしないでもない。懐かしいマレーシア! 無性にマレーシアに行きたくなった。

 何となく不思議な感覚に包まれてリクシャーで走ること15分。ようやく目指すパナジに到着した。
 いよいよ,インドの旅の最終章だ!
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by Asirope2 | 2007-04-19 16:39 | インド

カジュラホのアプサラ

 カジュラホに来てから,休養をとっていた初日を除いて毎日寺院を観に行っている。すっかりここの彫刻群の面白さの虜になってしまった。注意深く見ていくと毎日いろいろと発見がある。最初見たときにはその圧倒的な数の像にただ唖然としていたけれど,慣れてくるにつれてそれぞれの彫刻の作風の違いまで楽しめるようになってきた。

 ここカジュラホの寺院群は官能的な男女交合像で有名だけれど,何度も見るうちに僕はその周囲を彩る天女アプサラの像により惹かれるようになった。一口に天女像とは言っても,鏡を見て髪型を整えているもの,(たぶん)足の裏に刺さった棘か何かを抜いているものなど,その像には様々な種類がある。
 また,カジュラホの寺院群は現存するものだけで20余り,実際には80以上の寺院が建てられたという。その一つひとつに膨大な数の像が飾られているので,それらを作った彫刻家も相当数いたに違いない。そのため,同じ意匠の像でも彫刻家による作風の違いが顕著に現れる。顔のつくり・表情や体の姿勢,身にまとった薄いヴェールの表現など,細かいことをじっくり観察していると,時の経つのを忘れてしまうほど面白い。
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 そんな中で一つ,きれいだなと思った像がある。柔和な表情にしなやかで均整の取れた姿勢,ヴェールのひだの質感まで表現されている。強烈さはないけれど,繊細で優美な姿が印象的だった。カジュラホの数多いアプサラ像の中で,この像は優しい表情に満ちていた。
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 この像はかなり分かりにくい場所にある上に,この像の少し下のほうにかなり露骨で強烈な彫刻が並んでいるため,ほとんどの観光客はそちらばかりみてこの像には気付いていないようだった。もったいない,と僕は強く思う。


 ちなみに,これらカジュラホの寺院群と同時期に作られたカンボジアのアンコール遺跡群にも,数多くの彫刻が見られる。当時のインドシナ地域はヒンドゥー文化の影響を強く受けていたため,アンコールの寺院もやはりヒンドゥー教寺院で,随所にアプサラ像が彫られている。去年カンボジアに行ったときの写真を引っ張り出してきて見比べてみた。
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 僕は大抵のことではアンコール遺跡びいきなのだけれど,こと彫刻に関しては本家インドのカジュラホ寺院の方が,二段も三段も優れている。カンボジアのアプサラも美しかったけれど,カジュラホの方が遥かに自由で表情も豊かだ。


 カジュラホはかなり小さな村で,その西に多くの寺院が集中している。特にその中の10ほどのヒンドゥー寺院が塀で囲われ,その中が公園のように整備されている。彫刻もこの西群の寺院のものが保存状態もよく,質量ともに優れていて,今までここに載せた写真も全て西群の寺院のものだ。
 このほかに,村の東と南にもいくつかの寺院がある。村の東には3つのジャイナ教寺院が集まっており,壁面の彫刻はヒンドゥー寺院と共通しているものも一部あるものの,ミトゥナ像(男女交合像)はなかった。どちらかというと地味な印象を受けるのは仕方ない。
 さらにそこから南へ行くと,いくつかのヒンドゥー寺院がある。ただしこれらの寺院は,田園風景の中にパラパラと互いに離れて点在するのみで,団体様御一行の観光バスはまずここまで来ることはないだろう。そのなかの一つに,同じ宿の日本人旅行者と行ってみた。ここはもう,寺院以外には本当に何もないところだった。
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 寺院は損傷が進んでいるようで,その周囲を飾る彫刻にも失われたものが多いようだった。寺院はそれでものどかな風景の中に静かに佇んでいた。鳥の鳴き声や木の葉が風にそよぐ音以外は何も聞こえない。数人の村人が,寺院の入り口や周囲の木陰で静かに過ごしている。強烈な日光と40℃を超える暑さの中で,この寺院の周囲だけ時間の流れ方が他と違うようだった。ここではきっと昔から変わることなく,こうして静かにゆっくりと時が経過してきたに違いない。


 この日の夜,インド舞踊のショーがあると聞いて行ってみた。インド各地の伝統舞踊を紹介するというもので,なかなか面白かった。この中で,インド北部のダンスというのを見たときにアッと思うことがあった。ダンサーが体の動かして一瞬止まったときの姿勢が,アプサラ像そっくりだったのだ。彫刻家はきっと,こういうのをモデルにしてアプサラ像を彫ったに違いない。
 インド文化の奥深さを垣間見た気がした。
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by Asirope2 | 2007-04-15 19:01 | インド

インド人のバイタリティ/カジュラホ

 次の街への移動に備えて,ジャイサルメールから一度デリーに戻った。デリーは2週間前と比べて明らかに暑くなっていてもはや「さわやか」ではなくなっていたけれど,日中はまだ歩き回れるのでジャイサルメールに比べると楽だった。ちなみに宿のテレビでBBCの天気予報を見ていると,デリーの気温は36℃となっていた。ジャイサルメールはいったい何度まで上がっていたのだろうか?

 デリーでは,ジョードプルで出会った日本人旅行者のカップルと再会したりとなかなか楽しかったけれど,鉄道の切符を手配するとすぐに移動した。次の目的地はカジュラホという小さな村だ。小さな村だけれど,ここには有名な世界遺産の寺院群がある。

 カジュラホには鉄道が通っていないため,まず鉄道でデリーから4時間ほどの街まで行き,そこからバスに乗り換えてさらに5時間ほど移動しなくてはならない。一日がかりの移動は大変だ。特にバスに乗り換えてからが辛い。インドのローカルバスは常に超満員になる。座席の間隔もやたらと狭く,体を動かすことがほとんどできない。これに5時間も乗っているとお尻は痛いのを通り越して感覚が麻痺してくるほどだ。
 でもこのローカルバス,一方ではインドの庶民の強烈なバイタリティが間近に見られるのでかなり面白い。その席を譲れ,いや譲らない,とやりあったり,途中の街に停まると物売りの少年たちがどんどん乗り込んできたり,後ろの席で怒鳴りあいの喧嘩をしているインド人がいると思ったら大声で仲良く会話しているだけだったり,やたら元気なインド人たちで溢れている。そんなインド人に囲まれて,へとへとになりながらも何とかカジュラホの村にたどり着いた。


 ここカジュラホの寺院群は千年ほど前に建てられ,今も村の中に数多く点在している。この中でも特に,村の西側に多くの寺院が集中しているところがある。今日,ここに行ってきた。朝は日の出の時刻から開いていると聞いたので,相当暑くなる日中は避けて日の出の時間に行ってみたら,本当にちゃんと開いていた。

 カジュラホの寺院群がミトゥナ像で有名だということは,事前に知っていた。ミトゥナ像とは,男女交合像,つまり性的行為を描写したものだ。インドだからどんな遺跡があってもおかしくはないと思う一方で,これを古代のインド人がどのような考えや感性で捉えていたのか,僕には今ひとつ見当がつかなかった。これは自分の目で見るしかない。
 そして,実際に見た彫刻は僕の想像を遥かに超えるものだった。


 寺院群のある一画は,今は公園のように整備されている。保存・修復活動も行われているようだった。
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 ここには10ほどの寺院がある。そのどれもが,周囲をびっしりと彫刻で覆われている。
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 この彫刻の完成度と表現力が凄まじい。きれいだとか良く彫れているとかいうレベルではない。これはもはや彫刻の域を超えている。その全てが圧倒的な生命力に溢れ,表情は多彩極まりない。ここに彫り付けられた全ての人と動物が,その生と性を謳歌し,永遠の生命を誇っていた。

 いくつかの彫刻は,優美であったりチャーミングであったりする。
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 しかし,中には露骨で強烈なものも多くあった。敢えていくつかの写真を載せることにする。
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 彫刻は寺院の外側だけではなく,内部にもたくさんあった。
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 薄暗い堂内で,窓から差し込む光に静かに浮かび上がる彫刻の数々は官能的でありながら,しかも神秘的ですらあった。
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 これらの多彩な彫刻が寺院を覆い,十ほどのそんな寺院が建ち並ぶ。質量ともに圧倒的な彫刻の描写と表現力にはもはや低俗さは感じられず,歓喜に満ちた生命への純粋な賛美だけがあった。


 これらの彫刻を見ていて,感心したとか感動したとか言うよりも,僕の場合は呆気にとられたという方が正確だ。ここまでやるか,と思った。でも同時に,ここまでやったからこれらの彫刻がこれほどまでに生命力に溢れているのだ,ということもよく理解できた。

 僕は実際にカジュラホに来るまで,ミトゥナ像についてこう考えていた。インドでは気候が厳しく,人はすぐに死んでしまう。そんな環境で昔の人々は生を強く渇望した。性は生につながる。それが,人々にミトゥナ像を作らせたのではないか…

 実際に見たミトゥナ像は,しかしそんな感傷やひ弱さとはかけ離れたものだった。ここでは生命は歓喜に溢れている。もちろん生への渇望という要素もあっただろうけれど,ここの彫刻を見ているとむしろ,古代のインド人たちが自分たち自身の生命への歓喜を表現したかのように思える。何といってもこの気候の厳しいインドで,インド人たちは何千年という歴史を刻んできたのだ。その生命力は半端ではないはずだ。ローカルバスの庶民にも溢れんばかりのバイタリティが感じられたではないか。
 ガイドブックの解説にはタントリズムの影響なども触れられているけれど,それを突き抜けた何かを,僕はミトゥナ像から感じずにはいられなかった。


 これらカジュラホの寺院群が建てられた千年前といえば,カンボジアのアンコール遺跡群が建てられた時期と同じだ。アンコール遺跡は実はヒンドゥーの遺跡で,インド文化の影響を強く受けたものだった。アンコール遺跡の彫刻も非常に素晴らしいものだったけれど,それが作られたのと同じ頃,本家のインドではそれを遥かに凌駕するような彫刻を創り出し,独自の高みへと突き進んでいたのだった。
 インドは常に文化の発信源なのだ。もちろんインド自身も外来の文化の影響を多く受けてはいるけれど,それ以上に自分たち自身で常に何かを生み出し,それを突き詰めずにはいられない国のようだ。宗教・思想から食文化に至るまで,人類の文化と歴史に大きな影響を与え続けてきて,それは今も変わることがない。
 それを支えているのがインド人の強烈なバイタリティだということが,カジュラホへ来てようやく分かってきた。
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by Asirope2 | 2007-04-12 14:20 | インド

ラジャスタンを行く(6)~ 砂漠の村

 ジャイサルメールでずっとダラダラしているのも芸がないので,近くの小さな村へ行ってみることにした。ジャイサルメールから南へ約50km,ローカルバスで1時間半のところにあるクーリーという村だ。他の旅人から,非常に静かでのんびりした村だと聞いていた。

 あらかじめクーリー行きのバスは朝10時出発だということを調べていたので,当日は朝の9時半頃にバス停に行った。バスはおんぼろで当然エアコンなどなく,窓が開け放たれている。
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 結構空いているなと思っていたらそのうちどんどん人が乗ってきて,出発する頃には満員になっていた。バスの屋根の上にも客が乗っていた。ここ数日,相当気温が上がってきているのに暑くないのだろうか。

 やたらたくさんのインド人と僕,それに一組のオランダ人カップルの旅行者を乗せたバスは10時半頃になってようやく走り始めた。走り出すと風が入るのでそれほど暑くはない。乗り心地は決して良いとは言えないけれど,たかが1時間半だ。むしろ大勢の個性豊かなインド人に囲まれてバスに乗っていると,自分がインドを旅しているのだという実感が沸いてきて,充足感を覚えずにはいられなかった。

 やがてバスはクーリーに着いた。僕はある客引きに連れられて一軒の宿に行った。庭の周囲に小さなバンガローのような部屋が並んでいる。悪くないなと思ったのでそこに泊まることに決めた。

 ちなみにこの宿,一泊三食付でなんと100ルピー(300円弱)だった。ご飯もちゃんとしていて,毎食手の込んだカレーを食べることができた。これで商売になるというのが信じられない。

 クーリー村は本当に静かな村だった。僕はインドというとすぐに街の喧騒を連想してしまうので,こんな場所があるのかという感じだ。家はあちこちに建っているけれど,何となく適当に場所と大きさを決めたという感じで,家と家の間の空間がいつの間にか道として機能しているようだった。
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 僕が到着したのは昼頃の一番暑くなる時間だった。野良牛も木陰でじっとしている。直射日光がきついのであまり長く外を歩いているわけにも行かず,日陰を見つけては休みながら村を歩いた。
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 このクーリー村,平和といえば平和なのだけれど,本当に何もないところだった。巨大な野良牛が駱駝のエサの干草を食べようとして,見張り番の子供が石を投げつけて牛を追い払う。こんなことがハプニングといえるほとんど唯一の出来事だった。
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 暇なのは村人も同じようだった。特に子供たちが珍しい外国人を放っておくはずがない。僕の姿を見かけると,誰もがハローと声を掛けてくる。かといって僕がその子供たちのほうに近づいていくと,彼らは逃げ出して物陰に隠れてしまう。僕が元の道に戻って散歩を続けようとすると,また子供たちが後ろからハローを大合唱する。これを何度か繰り返した。

 話に聞く限りでは,ここを訪れる旅人はこの村ののどかな空気を楽しみ,リラックスしているようだ。でも僕にとっては,色々と考えることの多い滞在となった。
 村を歩き回っていると,一人の男が声を掛けてきた。こっちへ来いよ,という。僕は男に促されるまま彼の家に入った。家といっても,5mか10m四方の狭い土地を低い土壁で囲んだだけで,屋根があるのは台所の上のわずかな場所だけというような,粗末な住居だった。

 彼は自分の妻と子供たち,そして同居している兄夫妻とその子供たちを片言の英語で僕に紹介してくれた。総勢10人ほどが,この狭い「家」に住んでいるのだという。子供たちの粗末な身なりも,この家族の貧しさをよく表していた。彼らはみんな音楽家なのだといっていた。彼は僕にチャイを振る舞い,僕のことを色々と尋ねてきた。名前は? 年は? 仕事は何だ?

 彼は自分たちをイスラム教徒だと言った。僕にはその理由がわかったような気がした。ヒンドゥーの世界では,音楽家というのは下位カーストの代表のようなものなのだと聞いたことがある。ジャイサルメールにはそういう音楽家が集まっている集落があり,僕は実際にそれを見ていた。彼らの生活は極めて貧しく,住環境も見るからに劣悪だった。
 そういう下位カーストの人達が,暮らしの向上を願ってヒンドゥー教を捨て,イスラム教や仏教に集団改宗するということが,インドでは実際に起きているそうだ。このクーリー村の彼も,きっと事情は同じに違いない。けれども,差別を受けている側の人々が改宗したところで,ヒンドゥー教徒側からの彼らに対する認識は一向に変わらないのだという。
 もちろん,彼の家族は代々イスラム教徒なのかもしれない。でも,彼と彼の家族を見ていると,この改宗の話を思い出さずにはいられなかった。

 彼はそのうち,つい最近ここに来たという日本人旅行者のことを話し始めた。そのジャパニーズ・レディはとてもいい人で,俺たちの写真を撮った見返りにこのラジオをくれたんだよ。
 そのラジオはどう見てもインド製の大きなもので,いまどきこんなものを持って旅行する日本人女性がいるとは思えないような代物だった。明らかに彼は僕に見返り,あるいは施しを求めていた。
 僕はそのとき,別に彼らの演奏する音楽を聴いたわけではなく,特に彼らに何か対価を支払う立場にあったわけではなかった。ただ,チャイをご馳走になったのは確かだ。そのとき僕はあいにく小銭の持ち合わせがなく,あるのはポケットの中でしわくちゃになった20ルピー札だけだった。チャイの値段としてはこれは高すぎる。道端のチャイ屋でも,田舎なら20ルピーあれば10杯のチャイが飲めるのだ。でも,そもそも彼が親切で出してくれたのであろうチャイにお金を払う必要があるのだろうか?

 少し迷った末に,それでも僕は彼にその20ルピー札を差し出し,お礼を言って彼の家を出た。この村の生活を見せてもらったお礼のつもりだった。そのお金を受け取るとき,彼は嬉しさを隠そうともせず,満面の笑みを浮かべていた。

 僕は,このとき彼に20ルピーを渡したことが正しかったのか今でも分からずにいる。これがきっかけで,彼がインドの他の街で見られるように安易に外国人にお金をねだるようになるかもしれない。そうしてこの村の素朴さが失われるとすれば,僕の行動は大きな間違いなのかもしれない。でも,実際に言葉を交わした彼らの貧困を無視して僕たち旅人がこの村の素朴さだけを求めるのも,“金持ち”旅行者のエゴでしかないような気がする。何が正解かまったく分からない。

 インドに長く滞在すれば,貧困と差別という問題に必ず行き当たる。特に地方に行けばカーストによる差別を目にする機会が増える。ジャイサルメールの駅に切符を買いに行ったときには,物乞いがプラットホームに出たところを駅員が怒鳴りつけているのを見た。まるで野良犬を追い払うような扱いだった。
 物乞いの男はそれでも媚びたような笑いを浮かべていた。そのとき,彼はどのような気持ちだったのだろう。彼は学校教育も受けず,これまでの人生をずっとそうやって追い払われながら生きてきたに違いない。そういう人生を送ると,人はどういう考えや感情を持つのだろう。しかも彼自身がどんなに努力しようとその境遇を改善することは社会から許されず,更にはその差別制度が,彼らに救いをもたらすはずのヒンドゥー教そのものによって規定されているのだ!

 その後も村歩きを続ける僕に,村人たちは気さくに声を掛けてくれた。その屈託のなさに救われるような気持ちだった。
 そして翌朝,僕はジャイサルメールに戻った。相変わらずの街の賑わいに思わず僕はほっとした。
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by Asirope2 | 2007-04-08 18:19 | インド

ラジャスタンを行く(5)~ ゴールデンシティ

 ジョードプルでは宿の居心地の良さと街の雰囲気にのまれ,予定より長居してしまった。何とか重い腰を上げて,ジョードプルから更に西に300㎞ほどのジャイサルメールという街に移動。ここまでくるとパキスタンとの国境までかなり近づくが,その国境は印パ対立のあおりを受けて閉鎖されている。
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 ジャイサルメールは長く東西交易路の中継地点として栄えてきたという。ところがスエズ運河の開通により陸路交易の地位が低下したことで衰退しはじめ,パキスタンとの国境閉鎖により交易中継地としての命運が絶たれてしまった。街の人口も最盛期の半分ほどになっているそうだ。そのため近代化の波には乗り遅れたけれど,それが逆に中世の面影が強く残る街並みを今に伝えることにもなり,観光客を多く集めている。
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 また,街の近くには砂丘があり,小さな街のいたるところに駱駝サファリツアーをアレンジする旅行会社がある。

 この街の中心には丘があり,そこにジョードプルと同じように大きな砦が立っている。街自体が小さいので,街外れの高台から見ると砦だけが宙に浮いているようにも見えて,なんとなく「天空の城ラピュタ」を連想してしまう。
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 ジャイサルメールは別名「ゴールデンシティ」と呼ばれている。ジャイプールのピンクシティ,ジョードプルのブルーシティに続いてゴールデンシティがあるというのもどうかと思ったけれど,それが実際にあるのがインドの奥深い(あるいは単純な?)ところ。
 この「ゴールデンシティ」,砂漠の砂を使って建てられた家々の色から名付けられた。ガイドブックを読んで砂の色にゴールドは格好つけすぎだろうと思っていたけれど,実際に朝日や夕日に照らされた街並みを目の当たりにすると,もう「参りました」と素直に認めざるを得ないくらいに,本当に街全体が金色の光に包まれる。
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 砦のほかには街にいくつかある貴族の豪華な私邸が,サファリツアーと並ぶこの街の観光の目玉だ。でも,僕にとってはこの街の中世のようなたたずまいと,平和で穏やかな雰囲気こそが最も魅力的に思える。
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 人々はジョードプル以上に親切でフレンドリーだ。どこへ行くでもなく,何をするでもなく街を歩いていても,この街の穏やかな雰囲気に浸っているだけで十分に楽しめる。クリケットをしている子供たちに「一緒に遊ばない?」と誘われ,一度買い物をした売店の親父からは「やあ,マイフレンド,元気かい?」と声をかけられる。それだけのことがこの上なく心地いい。
 ときどきふと,ここはインドのはずだよなあ,と不思議な感覚にとらわれる。野良牛,リクシャー,商店,物乞いなど,目にする全てのものがインド以外の何ものでもないのに,自分がインドにいるという感覚が希薄になってくる。フワフワとどこか現実離れしたような,いつまでも醒めることのない夢の中にいるような感覚だ。


 ラジャスタン地方に来て以来,毎日歩き回って何かを発見して興奮していたのが,ここジャイサルメールに来てからはゆっくり流れる時間に飲み込まれてしまった。気が付くと朝が昼になっていて,そのうち夜が来る。明日は何をしようか,そう考えているうちに寝てしまい,気が付くとまた同じ一日が始まっている。いったい僕はここにどれだけ滞在することになるのだろう?

 ただしそうは言っても後の予定もあるので,数日後にデリーへ戻るための列車の切符を駅まで買いに行った。駅の窓口で並んで順番を待っていると,別の欧米人旅行者が僕に話しかけてきた。今日って何日だっけ?
 みんな同じなんだな。
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by Asirope2 | 2007-04-05 15:17 | インド

ラジャスタンを行く(4)~ ジョードプルの温もり

 ジョードプルに来てからまだ数日しか経っていないのに,日に日に気温が上がっていくのが分かる。昨日は日中の気温が41℃まで上がったらしい。空気が極度に乾燥しているので実際には数字ほど暑く感じることはないけれど,それでも日中は部屋でおとなしくしていることが多い。出かけるのは早朝か夕方だ。

 ジョードプルの素晴らしいところは,メヘラーンガル砦だけではなく街自体も魅力に溢れていることだ。そしてその魅力というのは,街並みではなくてそこに暮らす人々が作り出しているものなのだ。朝に夕に街へ出ては歩き回り,そのたびに僕はこの街に魅了されてしまう。


 朝,日の出を迎えた街では,爽やかな空気の中に人々の日常の生活が始まる。
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 この街は建物が密集していて,その隙間を縫うように細く入り組んだ小道が通っている。これらの道はやがて,街の中心部である時計塔に至る。

 時計塔の周辺は広場になっていて,細い路地からは見えないメヘラーンガル砦もここからならよく見える。
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 時計塔の周りを歩き回っていると,鍛冶屋を見つけた。朝もまだ早い時間なのに,もう仕事を始めていた。僕が興味津々で見ていると,こっちへ来いと手招きする。寄っていっても別に何を話しかけてくるでもなくまた仕事を始める。近くでよく見ろと親切に言ってくれていたのだった。
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 カメラを出して写真を撮ってもいいかと聞いても,嫌がるそぶりも見せず黙々と仕事を続ける。これがデリーだと写真を撮ったらチップを請求されるのがオチだけどな,と思いながら写真を数枚撮らせてもらった。もちろんチップなんて言ってこない。ありがとう。そうお礼を言ってその場を立ち去った。



 この時計塔広場は,日中になるとバザール会場に姿を変える。八百屋,スパイス屋,衣服屋,雑貨屋など多くの店が出て,そこに多くの人々が集まってくる。活気に満ちた広場は,また同時にさまざまな色に溢れてもいる。色とりどりの野菜や果物,スパイス,布地,そして様々な色の衣装に身を包んだ女性たち。強烈な陽光の下で,これら色とりどりの原色が街を彩る。
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 ここジョードプルでは,今までインドで経験したことのないような人々の穏やかさに触れることができる。
 例えば,道を歩いているとリクシャーのドライバーが声をかけてくる。リクシャーに乗らないか。僕がいや,いいよと答えると,そうかい,と言ってもう向こうへ行ってしまう。あたりまえの会話だけれど,このあたりまえがデリーにはない。
 また道を歩いていると,今度は通りで若い男が近づいてくる。コニチハ,オゲンキデスカ,と日本語で話しかけてきた。インドでは日本語で向こうから話しかけてくる人間は相手にしてはいけないと相場が決まっている。警戒しながら,こんにちは,と返すと,それ以上は何も言わずに立ち去っていった。単に日本人に日本語で話し掛けたかっただけなのだ。こんな純朴な人間がインドにいたのか!
 他にも数え上げればきりがない。ジョードプルの人々の素朴な温もりは,僕のインドに対する認識を一変させてしまった。こんなに素晴らしい街があるのなら,何回だってインドに来たい。


 ジョードプルには子供が多い。道端で遊んでいたり,親に怒られていたり,友達同士でけんかしていたりする子供たちの表情は純粋だ。僕のような「先進国」から来た旅行者には,その表情が心に染みとおってくる。こうして,僕の心はますます深くジョードプルの街に取り込まれていくのだ。
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by Asirope2 | 2007-03-30 21:54 | インド