武陵源景区(1)

 張家界の街,といってもそれがすぐに分かる日本人は少ないだろう。かく言う僕も,今回の旅でガイドブックを開くまでこの街のことを全く知らなかった。張家界は湖南省の西北部に位置していて,沖縄本島とほぼ同緯度だ。湖南省の“湖”とは洞庭湖のことで,三国志ファンにはお馴染みだろう。呉の国が水軍を訓練したところで,ということはまだまだ華南地方だ。

 この張家界の街からバスで小一時間も行くと,武陵源景区という世界遺産の自然公園に着く。早速ここへ行ってみたけれど,予想に違わず素晴らしい眺めだった。

 バスを降りると観光ガイドが何人も寄ってきた。もともと一人で歩こうと思っていたので,日本人だから中国語がわからない,と言って追い払おうとしたのだけれど,これが熱心にいつまでも付いてくる。入場券を買って公園内に入っても,まだおばさんガイドが一人ついてきた。
 さすがにしつこいなあと思ったけれど,ふと相手が「一天三十元(1日で30元=500円)」と言っているのがわかって(その程度の中国語は勉強していた),おや安いなと思った。どうせ2,3千円取られるだろうと思っていたのだ。素朴で親切そうな人だったので,それではとお願いすることにした。

 公園に入ってすぐ,きれいな小川の風景が目に飛び込んできた。この日はあいにく,いつ雨が降ってもおかしくないような曇り空だったけれど,そのおかげでかえって靄がかかり,美しかった。
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 ガイドおばさん(名前を聞き忘れてしまった)は,こっちが中国語は分からないと言っているのにどんどん中国語で話しかけてくる。とりあえず行き先を伝えなければと,向こうが持っていた地図を広げて希望の行き先を伝える。今日行こうと思っていた黄石塞景区というところは標高1100メートルの台地になっていて,根性のない僕は登りはロープウェイ,下りは徒歩にしようと思っていた。ガイドおばさんにそう伝えて,いざ出発。

 このおばさん,50歳くらいの小柄な人だったけれど,さすがプロ。急な上り坂をタカタカと軽快に登っていく。僕も毎日街歩きをしているのでそう簡単にはへこたれない自信はあったけど,すぐに汗が滝のように流れ始めた。これほどの上り坂があるのなら,替えのTシャツを持ってくればよかった。

 そのうち,目の前に壮大な景色が現れ始めた。奇岩がいくつも突き立ち,遠くまで幾重にも並んでいる。すっきりと晴れていればまた違った見え方をしたのだろうけど,湿気でかすんだ空気の中での景色もなかなかのものだった。土と草木と水のいい匂いに包まれて,僕は満足していた。
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 歩き続けるうちに,僕は「上り坂をロープウェイで」という希望がおばさんに全く伝わっていなかったことに気付いた。もう1時間も登ってるぞ。こっちは汗だくだけど今さら戻ることもできず,仕方なしにそのまま登り続けた。
 ただ,このガイドおばさんには来てもらって良かった。道中にはいくつも展望台が設けられているのだけれど,その中のいくつかはあまり目立たず,景色がいいのに人がほとんどいなかった。おばさんはそういう場所に来ると必ず,「ここは見ときなよ」という感じで教えてくれたのだった。
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 人気のない静かな展望台で景色を眺めるのは本当に気持ちが良かった。岩の尖頭と山々は,遠ざかるにつれて霧とも霞ともつかない中に溶けるように消えていく。距離の違いが色彩の違いとなり,遠近感が強調されて美しい。その背景の空は雲に覆われて白一色だったけれど,その白は画用紙のように平坦なものではなく,すべての景色を包み込む無限の奥行きを持っていた。
 景色だけではなく,音もまた遠近感に富んだものだった。遠くからも近くからも鳥の鳴き声が聞こえてきたけれど,距離の遠近は単にその声の大きさだけに影響するわけではない。近くの鳥の声は鋭く明瞭に響き,遠くの鳥の声はかすかな残響を伴って柔らかくかすむ。そしてそれを包む静けさも,夜にベッドで寝るときのような密閉空間のそれとは違い,どこまでも拡がっていく広大な静寂だった。
 僕はこういう,空間の広さを感じることのできる場所が大好きだ。
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 急坂をひたすら登り続け,やがて頂上に着いた。ここには展望用の楼閣が建っていたけれど,とにかく人が多くて騒がしい。すぐに退散することにして,登ったときとは別の道から降り始めた。こちらの道は歩く人が少ないようで,石畳にも苔が生えていて視界が一面の緑。きれいだったけれど,たくさんの蚊がつきまとってくるので立ち止まることができない。疲労と空腹にフラフラになりながら,ようやく麓まで戻ってきた。
 ちなみにガイドブックには,黄石塞の頂上まで登りは3時間,下りは1時間半と書かれていたけれど,このガイドおばさんにかかると登り2時間,下り1時間だった。参りました。

 このあと,ガイドおばさんの娘さんのクラスメートという若い女性が現れた。この女性,近くのレストランの人だったのだけれど,なんと日本語を話した。昔は中国人のほか日本人も相手にガイドをやっていたらしい。どうやらガイドおばさんが中国語の話せない僕のために呼んでくれたようだった。話をしながらそのままこの女性のレストランに行き,ガイドおばさんも一緒に昼食。かなり高かったけれど,信じられないくらい美味しい鶏鍋を食べた。

 本当はこのあと,午後も公園を歩くつもりだった。武陵源景区は本気になって歩くと4日か5日はかかってしまうほど広大なのだ。でもこの日はハードな登山にさすがに疲れ果て,ここでおしまい。張家界の市内に戻るためにバスに乗った。
 バスに乗ると同時に雨が降り始めた。明日は晴れたらいいのだけれど。
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by Asirope2 | 2007-05-28 23:16 | 中国
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